4月13日、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の大統領は、ポーランドの大統領とともに、多くの民間人が犠牲になったウクライナ・キーウ郊外のボロディアンカを視察。「ナチスよりもひどい状況」と発言し、同国への連帯を強調した。小国ながら侵攻当初より強い言葉でロシアを非難し、ウクライナを支援し続ける理由は、バルト三国の悲劇の歴史にある、と池上彰さんが解説する──(第2回/全2回)。
※本稿は、池上彰『池上彰の世界の見方 東欧・旧ソ連の国々』(小学館)の一部を再編集したものです。
「バルト三国」という呼び名の理由
バルト海の東岸に並ぶエストニア、ラトビア、リトアニアの3カ国を総称して「バルト三国」と呼んでいます。それぞれ小さな国なんですよね。エストニアの面積が日本の約9分の1、ラトビアとリトアニアは、およそ6分の1ですから。
三国とも首都の歴史地区と呼ばれる区域に中世以来のさまざまな建築様式が現存していて、その美しい町並みは、世界遺産に登録されています。
何かと「バルト三国」とひとくくりにされる三国ですが、宗教や言語などの相違点も少なくありません。それでも「バルト三国」という呼び方が日本で定着したのは、近代以降の歴史に要因があります。
「密約」で旧ソ連に取り込まれる
三国は、近代以前はそれぞれ独自の歴史を刻んできましたが、地理的環境から、常に東方のロシア、西方のドイツからの侵略にさらされてきました。18世紀からはロシア帝国の支配を受けるようになります。20世紀に入り、ロシア革命後に三国そろって独立を果たしますが、この独立は長く続きません。
第二次世界大戦前夜の1939年8月、ソ連のスターリンは、ドイツのヒトラーとの間で「独ソ不可侵条約」を締結しました。ところが、この条約には両国でポーランドを分割することや、バルト三国をソ連が併合することを取り決めた「秘密議定書」(付属文書)が存在したのです。
翌月、ドイツがポーランド侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まりました。一方、ソ連はヒトラーとの密約に基づいて、バルト三国を支配します。ソ連は、三国にそれぞれ共産党をつくり、ソ連邦に取り込んでしまいます。