江戸時代、都庁と裁判所、警察の役割を一手に引き受けていたのが町奉行所だ。300人弱という小規模な組織で、100万人都市の秩序を守っていたという。歴史学者の山本博文さんの著書『江戸の組織人』(朝日新書)より、江戸で大地震が起きた時のエピソードを紹介しよう――。

※本稿は、山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

草履を履いた男性の足
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人口100万人を超える江戸の行政・司法・警察のトップ

将軍家のお膝元である江戸は、18世紀初頭には町方人口50万人、これに将軍の家臣である旗本・御家人や諸藩の江戸屋敷に暮らす武士を加えると100万人を超える世界最大の都市であった。

この大都市の町方の行政・司法・警察を担当したのが町奉行所で、トップは町奉行である。町奉行は、現在で言えば東京都知事・東京地方裁判所裁判長・警視総監を兼ねる幕府官僚のエリートである。

町奉行は、南北各1名ずつだが、地域で業務を分担するのではなく、月番で業務を行った。たとえば、4月に北町奉行が訴訟などを受け付けると、5月は南町奉行が訴訟を受け付け、北町奉行は4月に受け付けた訴訟を審理するという関係にあった。

町奉行はキャリア組で、実務は与力たちが握っていた

町方人口50万人の治安を守るのは、町奉行に付属された与力・同心たちである。

与力は、騎馬の格とされた武士で、南北町奉行所に各25名いた。そのうち、各3名は、町奉行の家臣が務める内与力であった(佐久間長敬著・南和男校注『江戸町奉行事蹟問答』東洋書院)。同心は、南北各100名、全部で200名いた。幕末の安政期(1854~1860)までに各40名が増員され、280名になった。

町奉行所の与力・同心たちは、わずか300名ほどの人員で、江戸の施政を担当し、治安を守ってきたのである。

町奉行は、20年も務めた大岡越前守忠相(在任1717~1736)などは例外で、短い時には1年、長くても数年で交代する。任命されるのは、旗本中のいわばキャリア組であって、町奉行の職務に精通しているわけではない。町奉行所の実務を担ったのは、ほぼ世襲で役を務めた与力たちであった。

たとえば北町奉行所を例にとると、与力25名のうち、上から5名が支配与力を務める。この支配与力が、一番組から五番組まで20名ずつの組に分けられた同心を1組ずつ預かるのである。