犯罪捜査にあたるのはポケットマネーで雇われた岡っ引き
支配与力5名の中から2名が、年番方となって、年番で与力の頭となる。町奉行所の人事は、町奉行の権限であるが、実際には与力・同心をよく把握している年番方が人事を行うことになる。
与力の担当は、裁判を行う吟味方、判例を調査する例繰方、養生所見廻、牢屋敷見廻などに分かれている。これら役の担当をする与力は能力のある者で、新任の者やあまり能力がないとみなされた者は「番方」となる。番方は、奉行所の当直や臨時の役を務める。
町奉行所の警察組織は、同心のみで構成される定廻、隠密廻、臨時廻の三廻である。この人数が意外に少なく、この中心であった定廻が南北各3~5名ほどしかいない。隠密廻、臨時廻を加えても、せいぜい南北合計30名ほどの組織で、江戸の治安を守っていたわけである。
もちろん、犯罪の捜査などは、この程度の人員では困難なので、定廻同心たちはポケットマネーで目明し(岡っ引き)を雇い、捜査にあたらせた。また、放火や盗賊に関しては、別に火付盗賊改が置かれ、配下の同心を指揮して取締りを行った。
いざ、容疑者を捕まえようということになると、番方与力のうちから「検使」が任命され、同心を率いて捕縛にあたる。実際に捕り物を行うのは同心で、与力はその指揮にあたる。時代劇などで、「御用」と書かれた提灯を持って犯人を捕縛しているのは同心で、目明しなどは犯人を捕まえる権限を持たなかった。
現在では考えられないほどコストのかからない組織であるが、これが可能だったのは、将軍の威光と江戸町人の自治組織が作り上げた秩序意識があったからであろう。
夜10時ごろ、直下型地震が江戸の街を襲う
安政2(1855)年10月2日、江戸をマグニチュード6.9の直下型地震が襲った。この地震について、町奉行所の与力を務めていた佐久間長敬が、当時の体験談を話している。
地震があった時、長敬は19歳の青年だった。10畳敷きの座敷の寝床に入り、寝付きもしないうちに西の方からごうごうという響きが耳に入った。何事かと頭をあげると、夜具のまま3、4尺も投げ上げられたように感じたという。
地震が起こった時刻は夜10時頃と伝えられるから、けっこう早寝だったのである。