今回は、障害のある兄を持つ、現在20代の「きょうだい児」の女性の事例を紹介する。彼女は物心ついたときから孤独を感じながら育った。思春期を迎えると、公共の場で兄が周囲に迷惑をかけていることに罪悪感や羞恥心を抱くようになったが、両親に本心を打ち明けることはできなかった。彼女はタブーのはびこる「家庭」という密室から、どのようにして抜け出すことができたのか――。
※筆者註:「きょうだい児」は、「きょうだい」「きょうだい者」と呼ぶこともあるが、本記事では「きょうだい児」で統一する。
障害児の兄
佐田架純さん(仮名・20代)は、中部地方でIT系の企業に勤める父親と、専業主婦の母親のもとに生まれた。3歳上に兄がいたが、兄は生まれて間もなく高熱を出し、それがもとで脳に障害が残り、重い知的障害と体のまひがある障害児だった。
「私が持つ兄に関する一番幼い頃の記憶は、3歳ごろ。私が泣き出した時に、母が私ではなく兄に駆け寄ったときの記憶です。兄には聴覚過敏があり、私の泣き声に反応してパニックになるため、母は私より先に兄をなだめに行ったのですが、私には、『泣かないで』と離れた場所から声をかけるだけでした。今となっては、なぜ自分が泣いたのか思い出せませんが、とてもショックだったことははっきり覚えています」
佐田家のすべては、兄を中心に動いていた。兄は、歩くことはできるがまひが強く、走ることはできない。知能と身体機能の面、両方の要因から、食事やトイレ、入浴には介助が必要だ。
誰に対しても世話好きで働き者の母親は、毎日のように兄にかかりきり。一方、寡黙で人間関係に不器用な父親は、仕事人間で家事や育児は母親任せ。兄の世話も佐田さんの世話も、父親が担うことは一切なかった。また、仕事のストレスを毎日の晩酌で紛らわしているようで、酒が入ると母親に怒鳴り散らす。
そのため母親は、父親の機嫌を損ねないよう、いつも神経を張り詰めていた。ただ、父親はどんなに不機嫌なときでも、兄に関わることだけは絶対に自分から話題に出すことはなかった。
車で10分ほどのところに住んでいた母方の祖母は、祖父の送迎で頻繁に母親の育児を手伝いに来てくれていた。母親が家事をしている間、兄や佐田さんの相手をしてくれたり、母親に用事がある時には、兄と佐田さんと一緒に留守番をしてくれたりした。祖母が佐田さんの家に来ることもあれば、佐田さんたちが祖父母の家に行くこともあり、母親と兄と佐田さんが祖父母の家に行くときは、食事や入浴を祖父母の家で済ませて帰宅。時には兄と佐田さん2人だけで祖父母の家に泊まることもあった。
「かまってほしい」「寂しい」と思っても、必ず兄のほうが優先されることを、物心つくかつかないかのうちに理解していた佐田さんは、わがままを言わないものわかりの良い子に成長。6歳になると兄は、住んでいる地区の小学校ではなく、養護学校へ入学。養護学校では、土日にバザーや学園祭、夏休みには遊びの会やキャンプなどのイベントが催され、佐田さんも母親に連れられて参加するようになった。