〇五年の世論調査では、ロシア人の「好きな国」は、フランス、ドイツ、日本、イタリアの順だった。ソ連崩壊直後は米国がトップだったが、その後凋落した。
この現象は一見、プーチン体制の矛盾のようにも思える。プーチンはロシアの新しい国家理念として、第二次大戦の戦勝をプレーアップする民族愛国主義政策を推進した。しかし、一般ロシア人が今日、すっかり「親日、親独、親伊」になり、敗戦国のプレゼンスがこれほど拡大しているのは、考えてみれば皮肉だ。
二島引き渡しは「義務だ」と答えるも…
だが、プーチンの柔道を通じた親日家ぶりやロシアの日本ブームも、肝心の北方領土問題には影響がなかった。プーチン時代十二年の北方領土交渉は進展がなく、メドベージェフが一〇年十一月、最高指導者として初めて国後島を視察するに及んで、政治関係は冷戦後最悪の段階に落ち込んだ。ソフトの人気は、外交のハード部門を変えるには至らなかった。
最初は日本側に期待を抱かせながら、挫折するパターンは、ゴルバチョフ、エリツィン時代と同様だった。国民は親日でも、政権の安定と延命、領土保全を至上命題とするKGB政治には、領土返還は厚い壁となった。
プーチンの領土問題での一枚看板は、二島引き渡しによる最終決着方式だ。
ロシア外務省筋によれば、二〇〇〇年九月の訪日前、プーチンは日ソ両国が国交を回復した五六年首脳会談の文書を公文書館から取り寄せて読み、自分で調べたという。
五六年共同宣言は、「平和条約締結後に歯舞、色丹両島を善意のあかしとして日本に引き渡す」ことを明記している。プーチンはパノフ駐日大使に「これは批准された文書なのか」と尋ねた。
大使が「その通りです」と答えると、プーチンは「それなら、(二島引き渡しの)履行は義務だな」と答えたという。以来、二島返還論はプーチンの対日戦略となった。
だが、二島だけなら、四島全体の七%にすぎず、五十年以上前に決着できた。その後、両国間では「法と正義の原則に基づき、四島の帰属を確認して平和条約を締結する」との九三年の東京宣言など新しい文書、宣言が調印されている。日本としては「二島最終決着」は到底受け入れられないシナリオだ。