それからずっと、一人で父の供養をしてきた。仏壇も位牌もない我が家で、お盆には子どもと野菜で精霊馬を作り、迎え火をして、命日の供養もしてきた。飛行機に乗って亡父のお墓参りも回忌法要もずっと一人でしてきたのだ。
私の墓参りは仏になった父との対話のためだった。
「なぜ助けてくれなかったの? もう、あの人を止めさせて! 早く迎えに来てよ!」
しかし、そんな私の墓参りさえ母は、私に後ろめたいことがあるからだと、自分に都合よく利用したのだ。父が私を恨んで書き遺した遺言があると、母の気分で、いくらでも証拠は作られたのである。
「私の心の中に母はもう存在しない」
今思うと、人間の「生と死」をいかに軽んじる家族だったのか、すべてが一本の糸でつながるように思える。生まれてくる血を分けた尊い小さな命に対して嫉妬と憎しみをぶつけ、夫であり父親の供養の場も家族を分断する機会に利用した母。そして従った兄だった。
また、それが家庭人としての父の生きざまと死にざまでもあったのである。
私にはどうすることもできなかった。
きっと母が亡くなっても、兄から私に連絡は来ないだろう。今となっては、それは私にとって救いかもしれない。3年前から私の中では、母はもう存在していない。
振り返ってみれば、何も問題がない家族が、いきなり孫の誕生をめぐって崩壊が始まったわけではなかった。家族とは内側から朽ちて、内壁がはがれるように腐乱していく。
家族の問題はずっと昔から根を張っていた。ただ目を瞑り見ないようにして、薄氷の平穏な暮らしを維持してきたのだと、今の私にはわかる。
自分が育った家族の崩壊を目の当たりにしながら、新しい命と新しい家族を築いてきた。家族というものの脆弱さと哀しさを身近に見つめても、やはり大切な家族でありたいと願い、子どもを育ててきた30年だった。
「親なのだから」という言葉は、子ではなく親に対して「親の責任」を問う言葉ではないだろうか?
30年の年月を越えて、世代は一巡して、子どもたちは当時の私の年に近づき、私はあの頃の母の歳になった。親としての生き方を問われるのは、まだまだこれからだと思っている。
いつか訪れる母との別れを偽善でも復讐でもなく、自分の気持ちに誠実に向き合って、この家族戦争を終焉させたいと思っている。