それでも、その警察官が心配して福祉事務所に連絡を取ってくれたおかげで、入院中から産後しばらくは、シニア用送迎車で息子たちを保育園まで有料で送り迎えをしてもらうことになったのだ。

一歩間違えば母の願い通りになっていた…

保育園とも、祖母が迎えにきても今後は絶対に子どもを渡さないように約束をしてもらった。孫にとっても危険極まりない祖母だったのである。

薄暗いトンネル内の家族のシルエット
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しかし、その後、無事に陣痛を迎えて入院したものの、胎児がお腹の中で回り方を間違えて、産道で引っかかって出てこられなくなった。

母の命令に従った自分の愚かさを後悔して、私は泣き続けた。

医師には翌朝まで様子を見ようと言われたが、産道でつかえて出られなくなっている娘をそのままにはしておけなかった。

私は母の呪いと対決するつもりで、窓の外の月に訴える気持ちで、世界の神々に祈りではなく、怒りを全身全霊でぶつけたのだ。目の奥で火花が散った気がした。腰が砕けるような激痛が走り、身体中の血管が裂けるかと思った。

すると不思議なことに、5分もしないで女の赤ちゃんが無事に産まれてきた。向きを変えずに勢いに任せて産まれてきた娘は無事だったが、私のほうは出血が止まらず大変だった。

しかし人生でこの時ほど、救われたと思ったことはない。神様はいたのだ。娘を無事授かることができて、命の大切さを思い知った。いつの時代でも出産は母子ともに命がけである。

母や兄の命令など無視して、お腹の赤ちゃんを第一に守るべきだった。私も母親失格だった。今でも、身重の身体で母と闘ったことは、私の人生最大の過ちだったと後悔している。一歩間違えば母の願い通りに、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。

ようやく実現した母との絶縁

まだまだ闘いは終わらなかった。

再び絶縁して3年後、兄が海外赴任中に母が手術を受け、再び母と復縁。子どもたちは7歳、5歳、3歳になっていた。

母はまたしても何もなかったかのように、三人の子の祖母として私の家に入り浸るようになった。親子の縁はなかなか切れるものではない。

母のストレスで私は声を失い、引っ越しを口実に母としばらく距離を置いていたが、ついに母との終わりの日が来た。

母は次男を特別に可愛がっていたが、なんと次男を勝手に自分の養子にして墓守をさせようとたくらんでいたことがわかったのである。次男には生まれた時から自分の養子にもらう約束だと偽り、母は幼い孫まで傷つけていた。私がそれを知ったのは、何年も後になってからだった。

次男はすでに思春期で、反抗期の嵐の真っただ中。もう、私に迷いはなかった。母と永遠に絶縁しなければ、私の家庭が壊されてしまう。子育てができないと思った。今度こそ、母を許せなかった。

今までに送られてきた呪いの手紙や、嫌がらせのメールなどすべて証拠を保管してあり、母が死んだらすべてを兄や孫、親戚に公開すると手紙に書いて母と完全に絶縁した。

それは私が48歳で初めてした「親との対決」だった。それから12年になるが、一度も後悔をしたことはない。しかしそれでも、もしも母に最期の日がきたら、連絡をもらえば会いに行くつもりでいた。私は娘として母を看取り、見送る覚悟でいたのだ。