母はずっと私の死を願っていた
今から三年前、大切な用があり思い切って母を訪ねた。仏壇に線香をあげさせてほしいと頼む娘を、家の敷地にも入れずに門前払いで報いた母だった。
85歳の母は老いのすべてを私のせいにして恨みをぶつけた。私も膵臓に嚢胞があり定期的にがんの検査をしていると伝えると、「なら、あなたもすぐ死ぬね」と、母は含み笑いを浮かべて、二度同じ言葉を繰り返した。
そして兄は家に隠れて、カーテンの奥から私と母を見ていた。
母はずっと私の死を願っていたのだ。娘に握られた証拠を恐れていたのだろう。実は私も心の底で、母の死で母から解放される日をずっと待っていた。
互いに死を願う母と娘。悲しいことに、こうした親子がこの世にはいる……。
もう二度と会うことも骨を拾う必要もないと思った。母を看取り送ることで娘のつとめを果たそうとしていたのは、私の自己欺瞞だったのだ。母がどんな末路を背負い、最期を迎えるのか、この目で見定めてやろうと思っていただけだった。
でもそんな気持ちを抱えているうちは、憎しみを手放せなかった。初めて、もう母とは一切関係のないまったく別の人生を生きようと決めた。
「家族とはまさに無法地帯だ」
気づくまでにこんなにも長い年月がかってしまった。あの時、母と絶縁をしなければ、私は自分の家族を守り、子どもたちを育てることはできなかっただろう。私自身が壊れていた。
57歳のこの日が、私の心の中で母が死んだ日となったのである。
家族とはまさに無法地帯だ。母を殺そうと思ったことは一度もないが、もう死んでほしいと思ったことは何度もあった……。家族内の殺人事件の報道を見るたびに、事件になった家族と我が家族の違いは何かと、心の中で問う日々だった。
何不自由なく豊かに育ち、私たち家族は世間からは問題のない平和な家庭に見えていたことだろう……。こうした家族でどのように亡父の供養をしてきたかを、伝えておきたい。それが、私が葬送に関心をもったきっかけにもなった。
私の第三子の懐妊中に父の一周忌が故郷の菩提寺で営なまれた。法要の席で、母と兄夫婦は私と私の家族とは目を合わせようともせず、一切口をきかずに、私たち家族の存在を無視した。
これが父の遺した家族であり、父の一周忌だったのだ。私が兄に会ったのはこの日が最後になった。
私は今でもあのような法要なら、する意味がないと思っている。
家族を切り裂くのも、また家族
母との縁はなかなか切れず、母は孫に会いに毎日のように我が家に来ていた。
しかし、子連れの私の存在が兄を傷つけるという理由で、父の供養の場に私が同席することを母は禁じたのだ。母に呼ばれて実家にいても、兄から訪問の電話があると、冬の夜の風呂上がりであろうと子連れで追い返された。
幼い頃から兄とはとても仲がよかったが、父の死後、線香すら一緒にあげたことはない。それは母がさせたことだったのだ。
母はそんなことを我が子にさせて、自分が亡くなるときのことをどう考えていたのだろう? 母が会わせようとしないので、私は兄と25年も会っていない。