松下幸之助の妻、むめのの生涯を描いた『神様の女房』の著者は、松下家の元「執事」である。
松下電器の営業マンとしてバリバリ働いていた高橋誠之助さんが、突如、「松下家に入った」のは1969年、29歳のとき。執事として松下家のヒト・モノ・カネの「交通整理」一切合財を任されたのである。意表をつく人事だった。なぜなら、高橋さんと幸之助の接点は、社内勉強会でたった一度、質問したことがあるだけ。その内容は「これから伸びる家電量販店とどう付き合っていくべきか」というものだったという。
「それほど目にとまる質問だったとは思えません。候補は何人かいて、きっといろいろ調べられていたと思いますが、今もって、なぜ私だったのか、真相はわかりませんなあ」
以来、高橋さんは特に幸之助の妻、むめのさんと多くの時間を過ごすことになった。
「総理大臣の奥様などが日常的に家にいらっしゃいますから、おもてなしのレベルは普通のご家庭とは違います。といっても、むめのさんはどこそこの奥様とメードさんで態度を変えたりしません。もちろん言葉遣いなどは違いますよ。でも公平、公正で、実に気持ちがいい。礼儀や人の道に外れたことが大嫌いな方でした。お土産やおもてなしも分相応を心掛けていて、相手にふさわしい気遣いの機微をよくご存じでしたね。私も気の利いたお遣い物を知る努力をしましたし、ご祝儀の額も“松下家の相場”と自分たち世間の相場を分ける癖がつきました。松下家の相場? まあ、世間の3~10倍ほどでしょうか」
よく3人で食卓を囲んだ。
「食事中に幸之助さんはテレビで相撲、野球、ニュースを観るんですが、すぐに『あれは誰や』『どういうことや』と、質問が飛んでくるので私は解説せなあかんのです。わからないと『君、大学出とるのやろ。何でもわかるやろ』と言われました(笑)」
高橋さんは幸之助を「嘘みたいな夢追い人」と表現する。会社経営、善き考え方を広めるPHP研究所、松下政経塾。おのおのが「目的」になることはなく、すべての人がよりよく生きられる「楽土」の建設を目指す「手段」にすぎなかった。
「幸之助さんは私利私欲なしに、本気で楽土を目指していました。その夢をむめのさんは共有して、陰でしっかり支えていたんです。共感ではなく共有です。共通の夢です。ですから、幸之助さんの功績はむめのさんあってのもの。私のミッションは、そんなむめのさんの功績を後世に伝えることだと思っています」