苦境のなか手を差し伸べてくれた経営の恩師

しかし、どんな厳しい状況のなかでも、がんばっていれば、必ずその姿を見てくれている人がいる。力を貸してくれる人も出てくるものだ。

私にとってそうした心強い味方になってくださった恩人の一人であり、京都を創業の地とした大先輩として、言葉に尽くせないほどお世話になったのが、オムロン創業者の立石一真さんだった。

アメリカに何度も通ってスリーエム社から大量の発注をもらうことができた経緯はすでに述べた。それだけの注文が入ったのに、民家の一階部分だけの工場ではとてもまかないきれない。新工場建設の必要性を感じていたが、銀行を駆けずり回ってもお金を貸してもらえる見込みはなかった。

ちょうどその頃、京都の財界や金融機関が中心となって出資してつくった、日本初のベンチャーキャピタルが誕生したことを知った。渡りに船とばかりに、すぐに融資を申し込んでみることにした。

わが社の取り組みと成果、将来性について、一時間あまり担当者に熱く語って申し込みをしたのだが、「あなたの会社はあまりにも規模が小さく、歴史もない。審査には回しますが、あまり期待しないように」というつれない返事である。

ところが、数日後に連絡が入った。なんと、ベンチャーキャピタルのトップが直々に工場を視察したいというのだ。

小さな工場から、世界企業へ

喜ぶべきことだが、私は内心ビクビクしていた。ちっぽけな工場に驚いて、融資の話が立ち消えになってしまうのを恐れたのだ。

永守重信『成しとげる力』(サンマーク出版)
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この頃は、交渉が順調にいっている会社の担当者を工場に案内したとたん、商談をうち切られたり、音信不通になったりすることが続いていた。

何しろ、三十坪ばかりの民家の一階部分だけの工場、設備も古ぼけた中古品ばかりである。不安にかられてもおかしくはない。ベンチャーキャピタルのトップをお迎えして、またがっかりされるのではないかと危惧していたのだ。

しかし、それは杞憂きゆうだった。ひと通り見学を終えたその方はこういって激励してくれたのだ。

「創業一年でここまできたのですか。立派なものですよ。私が創業した頃の工場はもっとみすぼらしいものでしたから」

そういってにっこり笑ったその方こそ、立石一真さんであった。これがきっかけとなって、以来立石さんからは、折に触れて薫陶を受けるようになったのだ。

その後、そのベンチャーキャピタルから融資が決まり、京都新聞にそのことが大きく取り上げられた。これをきっかけに、金融機関の間で一気に日本電産の名が知られることになったのだ。

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