反骨の心に火をつけてくれた“恩人”たち
逆境に負けず、困難にめげず、自分の志を貫き通すためには「執念」が必要である。意地、負けん気、闘争心、反発心……などといい換えてもよい。
どんな苦難に見舞われても「負けない」と思う強い気持ち、「なにくそ」とどこまでも食らいつく気概のことである。
自分の人生を振り返ると、闘争心を沸き上がらせ、反骨精神の太い根っこを植えつけてくれた人たちがいる。
いずれも、その場では憎しみと反発の対象であった人ばかりだが、あとから思えば、その人たちがいてくれたおかげで、私は自分を奮い立たせ、経営者としての第一歩を踏み出すことができたのだ。
そういう意味では、彼らは人生の“大恩人”たちである。
たとえば、一人は先にも述べた小学校のときの担任の教師である。
「百姓の息子がそんなに勉強して役に立つのか」
とにかくえこひいきをする先生だった。授業中に私が手を挙げてもいつも無視し、テストで満点をとっても、通知表にはけっしていい成績をつけてくれなかった。昼になると、質素な私の弁当をのぞいて、「こんなものを食べているぞ」とみんなの前で恥をかかせた。
こんなこともあった。友人と学校から帰宅している途中、後ろから自転車でその先生が追いついてきた。その友人は、両親とも学校の先生という家の子どもだった。
先生は「後ろに乗れ」と、友人を自分の自転車に乗せて行ってしまう。私のほうには言葉をかけるどころか顔すらも見ないのだ。
中学に入ってから、オール五の成績をとったときのことだ。中学校の先生にいわれて、成績表を小学校のときの担任の先生に見せることになった。この成績なら、文句はいわれまいと自信満々で担任の家を訪ねた。
そのときにいわれた先生の言葉はいまも忘れない。「百姓の息子がそんなに勉強して役に立つのか」とボソッとつぶやいたのだ。
全身の血が沸きたち、頭に上った。「いまに見てろよ。必ず偉くなって見返してやる」と固く心に誓った。
それからはこの教師の写真を壁に貼って、死に物狂いの努力を重ねた。何にも負けまいとする“闘争心”を植えつけてくれたのが、この小学校の先生だった。