格差は原動力になる。問題の本質は格差の固定化だ

71歳の私が子供の頃は、日本は今よりはるかに貧しかった。

私の父は東芝勤務のサラリーマンで「上の下」か「中の上」の生活レベルだったのではないかと思うが、毎月一度のすき焼き鍋が最高のごちそうだった。タクシーなど、もったいなくてまず乗れなかった。

自宅に来客のある時は出前のお寿司をとった。これが最高級のぜいたくだった。風呂の水は1週間に1度か2度しか交換せず、上がり湯で体をきれいにした。給食は脱脂粉乳だった。多くの子供たちは栄養失調で青ばな(青っぽい鼻水)をたらし、上着の袖は拭いた青ばなでテカテカに光っていた。

路地を行く手をつないだ3人の子供を座って見ている子供たち
写真=iStock.com/gyro
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かつて貧困度はエンゲル係数で測ったものだ。エンゲル係数とは「1世帯ごとの家計の消費支出に占める食料費の割合」だ。この数値が高ければ、絶対的な貧困層と言える。私が子供の頃はエンゲル係数が今よりはるかに高く、貧乏だった。

しかし相対的な貧困を示すジニ係数は、きっと今よりかなり低かっただろう。皆、平等に貧乏だったのだ。だからと言って、皆が落ち込んでいたわけではない。今日より、明日。明日より明後日にはよりよい生活ができるとの夢があったからだ。

一定の格差は社会を前進させる原動力になりうる。問題は、固定化である。絶望や諦めに社会が覆われては、社会の活力自体が失われてしまうことになりかねない。

富裕層を叩いても無意味

格差是正の議論となれば、必ず富裕層がターゲットになる。

私はJPモルガン勤務時代、仕事の関係で数多くの世界の大金持ちと知り合ったが、日本の金持ちとはスケールが違った。もし世界の大金持ちと同じような生活を送れば、日本ではすぐに週刊誌のネタになってしまうと思う。

日経新聞「ファストリ、中途人材に年収最大10億円 IT大手と競う」(1月16日朝刊)では、「デロイトトーマツグループの20年度の調査によれば、日本の最高経営責任者(CEO)の報酬総額の平均は1億2千万円。米国は15億8千万円で、日米の格差は前年の12倍から13倍に拡大した。欧州でも英国のCEOは3億3千万円の年収がある」とある。平均が15億8千万円ということは、億単位の年収の人が米国にはごろごろいるのだ。

米国の若者は会社経営者の大きく立派な家を見て「自分も」と夢を持つ。大リーガーやプロバスケットボール選手、プロアメリカンフットボール選手たちのぜいたくな生活を見て「自分も」と思うのだ。夢がかなう確率は低くても夢が持てるというのは大事なこと。戦後の日本人が生き生きしていたのと同じだ。

要するに、日本にいるのは絶対的な大金持ちではない。ジニ係数で言うところの相対的なお金持ちだけだ(世界から見れば小金持ち程度だろう)。大リーガーと日本のプロ野球手の年棒、日米社長の年棒などを比較すれば、容易に想像できる。