不幸の分配と結果平等という社会主義の隘路
今の若い人は「社会主義」と聞いてピンと来ないかもしれない。
私が「社会主義ではだめだ」と最初に強く実感したのは「ベルリンの壁」が崩れた1989年末。JPモルガンの資金為替部の幹部会議に出席するために東ベルリンの最高級ホテルに泊まった時だった。
当時、東西ベルリンの境界線にでは、銃器を持ったいかめしい東側兵士がパスポート検査をしていた。彼らはなかなかパスポートを返してくれないので、バスの中で待つわれわれはえらく緊張したのを覚えている。
まだ観光客はほとんどおらず、東ベルリン一のホテルはガラガラだった。レストランでの夕食は夜8時から始まった。前菜、主食、デザートだけのコースだったが、真夜中の0時までかかった。最初は歓談していたわれわれも会話に飽き、あることがきっかけでウエートレスに文句をつけた。が、彼女に無言でにらみ返されただけで終わった。
この時、私は「社会主義とは何ぞや」について身をもって理解した。働いても働かなくても給料は変わらないので誰も熱心に働かない。国は衰退するだけだ、と。
東ベルリンを走る車は「段ボール製」と言われていた。本当かどうかは知らないが、性能が極めて悪かったということだろう。さらに西ドイツ経済からははるかに遅れていた。余談になるが、ある美術館に展示されている彫刻を現地の人たちが素手で触っていくのにはショックを受けた。
格差是正と分配を旗印にする疑問
世界では今、格差が問題となっている。富が富裕層に集中しすぎたからだ。
これは資本主義がうまくいった証拠でもあるし、その副作用でもある。格差是正が政府の仕事になるのはわかる。
しかし、日本の格差は中間層の没落によって生じたものだ(図表1)。「富裕層に富が集中したことにより拡大した」欧米とは異なる。それは専門家のほぼ統一された見解だ。その日本で格差是正を問題にし、さらなる分配を旗印にするのは疑問である。
「行き過ぎた格差」を是正するのは政府の仕事かもしれないが、行き過ぎてもいない格差を是正し「結果平等」へと邁進するのは資本主義国家の仕事ではない。社会主義国家の仕事である。究極まで格差是正を追求すれば完璧な社会主義国家の成立だ。働いても働かなくても同じ、努力してもしなくても同じの社会主義国家だ。
日経新聞「明日は見えますか 格差克服『社会エレベーター』動かせ」(1月5日朝刊)で京都大の橘木俊詔名誉教授は「(日本は)格差の大きさより全体的な落ち込みが問題だ」と指摘されている。まさにその通りだ。
「国民の生命と財産を守る」のは政府の最低限の仕事だ。そのためセーフティーネットの構築は極めて大切となる。そのうえで競争を促す。平等な競争環境をつくることこそが、政府の仕事なのではないのか? 結果平等ではなく機会平等だ。