※本稿は、内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。
実は教師は学生にコントロールされている
この間、脳科学の本で面白いエピソードを読みました。教師が教壇から話すだけで、学生は黙って聴いているだけという授業でも、学生は教師をコントロールできるという実験なんです。教師が教壇の真ん中より右に行った時には、教師がどんなジョークを言っても笑わない。逆に、教師が真ん中から左にいる時には、それほど面白くない話でも爆笑する。
学生がそうすると、授業開始15分から後は、教師は左側にはりついて動かなくなるそうです。もちろん教師自身は自分がそんな位置取りを選択させられていることに気がつかない。無意識にそうしているんです。
実際にそれに類することは対面的環境では起きています。笑ったりとか、目をきらりとさせたりとか、話の途中でボールペンを手にして、ノートを取り始める。これは教師に対する「激励」のメッセージですよね。
「いまたいへん面白く話を聴いています」ということを、ノートを取るというジェスチャーを通じて発信しているわけですね。実際にうちに帰ってノートを見たら、書きなぐりで字が読めなかったりするんですけれど。メモを取るというのはむしろ副次的な目的で、実際には目の前で話している人に対して「OK」のサインを送るのが主たる目的なわけですね。
話者と聴衆とが交わす無言の「やりとり」
だから、僕が演壇から話すだけでも実は無言のうちの「やりとり」は行われています。聴衆のリアクションはかなり正確にこちらにも伝わっている。誰も笑わない、誰もノートを取らない……ということになると、こちらも「今日は話が受けていない」ということがわかる。そういう時は話題や話し方を替える。そうやって環境に適応します。
聴衆が無言だからといって、一方向的であるということではないんです。聴いている人たちのボディ・ランゲージってすごく雄弁なんです。腕を組んだり、足を前に投げ出すのは、「お前の話を聴く気はないぞ」というシグナルですし、あごの下に手をあてて机に肘をつくというのは「すごくおもしろい」というシグナルです。だから、腕を組んでいた人が、机に肘をつくようになったら、それで僕の話に対する評価を変えたということがわかる。そういうふうにかなり複雑な意思疎通をしているんです。