※本稿は、内田樹『複雑化の教育論』(東洋館出版社)の一部を再編集したものです。
自分の居場所を保証する「キャラ設定」
いまの子どもたちは学校で集団の中に置かれると、まず「キャラ設定」をされます。いくつかの定型的なキャラクターがあって、それをあてがわれる。ジャイアンとかスネ夫とかのび太とかいうわかりやすい便宜的な「ラベル」を貼られる。仮に納得のゆかないラベルであっても、それを受け入れれば、とりあえず集団内部では自分の居場所が保証され、拒否すれば居場所がなくなる。
でも、このキャラ設定の怖いところは、一度それを受け入れると、もうそこから出られなくなるということです。この傾向は、時代が下るにつれて、しだいに強化されてきているような気がします。
3年くらい前に、ある大学新聞の記者という男子学生2人が取材に来たことがありました。教育に関して話を聞きたいということでした。話しているうちに「いまの学校教育がうまくゆかなくなった理由は何だと思いますか?」と質問されて、「一つは中高一貫教育ですね」と僕が答えました。特に男子の中高一貫教育がいけないって。
すると、2人ともちょっとびっくりした。2人とも男子中高一貫校の出身だったからです。「どうしてダメなんですか?」と訊くので、12歳から18歳まで一緒にいるというのは無理があると思うって答えました。
中高一貫校の生徒の会話が猛スピードなワケ
その頃って、一番大きく変化する時期ですよね。でも、小学校を出たばかりの子どもが入学して、何となく同級生と顔見知りになって、グループができると、そこでキャラ設定されてしまう。
『坊っちゃん』には狸、赤シャツ、野だいこ、うらなり、山嵐、坊っちゃんと六類型が出てきますけれど、漱石の作家的想像力を以てしてもせいぜいそれくらいなんです。片手で数えられるくらいの定型しかない。その一つをラベルとして貼られる。そして、「あだ名」を付けられる。小学校を出たばかりですから、とりあえず仲間に入れてもらえるなら、自分らしくないキャラ設定をされても、誰も文句は言いません。