「にわかファンは黙っていろ」はおかしい
「にわか」という言葉が最近よく使われますね。これまで興味を持ったことのない領域のことに興味を持つようになって、それについて自分なりの感想を述べたりすると、「古手」の人たちから「昨日今日この世界を知った人間がわかったようなことを言うんじゃない」と語ることを抑圧される。
前に日本でラグビーのW杯があった時に、それまでラグビーなんか観たこともなかった人たちがテレビで試合を観るようになって、ファインプレーや戦術について語ったりするようになりました。すると、前からのラグビー・ファンの中にはそれを喜ばない人がいた。むしろ「にわかファンは黙ってろ」というような抑圧的な態度をとった。これはおかしいと僕は思った。ラグビー・ファンだったら、1人でも多くの人がラグビーに興味を持って、ラグビーについて語るようになる状況を歓迎するはずです。でも、そうなっていない。
同じことが思春期コミュニケーションでも起きているような気がします。「らしくないこと」を口にすると、一斉に「黙れ」という圧力がかかる。昨日今日思いついたようなことは「にわか」なんだから口にする資格はない、と。
だから、自分自身が新しい体験をして、新しいアイディアや、新しい感覚を獲得しても、それを仲間たちと共有することができない。それは思春期の少年少女にとっては、すごくつらいことだと思うんです。人間にとって、より複雑な生き物になることは自然過程なんですから。
中高一貫校は効率がよいが、複雑化への禁圧がある
たしかに中高一貫校は受験勉強する上では非常に効率がよい。これは間違いないです。だから、どんどん増えるし、親たちもそういうところに行かせたがる。でも、12歳の時に設定したキャラクターを途中で大幅に変更することが許されない。それが複雑化することに対する制度的な禁圧として働いてしまう。
だから、中高一貫校だと、高校の途中ぐらいで壊れてくる子が出て来るんじゃないか。その学生新聞の取材の時に、僕はそう言ったんです。そしたら、取材に来た2人の学生のうちの1人が顔面蒼白になって、「僕がそうでした」って言い出した。
彼は自分に振られたキャラに耐えられなくなって、高2の時に1年間休学してアメリカに行って、1年遅れて、同級生が卒業した後の学校に戻ってきて卒業したそうです。自分のことを知っている人がいないクラスでひとりでいる方が、仲間に囲まれて決められたキャラを演じ続けることよりましだったんでしょうね。