教師によるキャラ設定は呪縛になるかもしれない
東大はいまではもう半数ぐらいが中高一貫校の出身だと聞きます。もし東大生が幼児化しているとしたら、それはいくぶんかは中等教育の制度上の問題だと思います。人間は日々複雑化してゆくものであり、複雑化して昨日とは違う人間になることは、端的に「よいこと」であるということがいまの中等教育では常識になってない。「変わっていいんだよ」ということがアナウンスされていない。
それどころか、教師自身が、生徒をあだ名で呼んだり、あるいは「お前は、ほんとにそそっかしいなあ」とか言って、キャラ設定に加担することさえある。教師からすれば、生徒をあだ名で呼んだり、際立ったキャラを確認したりすることは、承認を与えているということであって、主観的には愛情の表現であったりするのかも知れません。
でも、気をつけて欲しいのは、そういう言葉は呪縛として機能することもあるということです。「お前はほんとうに要領がいいな」とか「お前はほんとうにそそっかしいな」とか言う時、教師はただ論評をしているつもりかも知れません。
誰も気づかないうちに複雑化にブレーキがかかる
確かに「要領がいい」と言われたらその通りだし、「そそっかしい」と言われたらその通りですから、子どもも反論できない。でも、子どもは変わるんですよ。要領のよかったはずの子が、要領が悪くなることもあるし、そそっかしかった子が思慮深くなったりすることもある。でも、その決めつけの言葉があると、周りは設定されたキャラのように扱うし、自分でも無意識のうちにそれに迎合するようにふるまう。
そうやって複雑化にブレーキがかかる。自然な変化が阻害される。でも、そういうことが起きているということに、誰も気がつかない。本人も気づかないし、親も教師も友だちも気づかない。
人生で最も多感な中高の6年間に設定されたキャラを演じ続けなければいけないというのは、ほんとうに成熟にとってよくないことだと思うんです。その時期の基本的な心もちは「迷い」だからです。自分が何を思っているのか、何を感じているのかを、クリアーカットな言葉で表現できない。400字以内で自分の意見を述べよと言われても、自分がどんな意見を持っているのかさえはっきりしない。
だから、「自分が何を考えているのかよくわかりません」という回答を許してあげなければいけないと思うんです。むしろ、その方が「よいこと」なんだって。「曰く言い難い」心象がわだかまっていて、その全体はとてもきちんと言語化できないけれど、その断片についてなら、近似的に表現できるというのなら、それで十分じゃないですか。