オンラインでできる教育的コミュニケーションの限界
オンライン授業でどうやってこの「交話的機能」を確保するか? それが教育現場では最重要の課題になります。授業を聴いている人たちが、「自分はたしかに教師によって個体識別されており、いまのメッセージはあきらかに自分を宛て先にして発信された」と感じられるかどうか。そのためには、どういう工夫があり得るのか。それが最優先の技術的課題だと思います。学校というのは何よりも先に子どもたちに社会的承認を与える場だからです。「君はここにいてよい。君にはここにいる権利がある」ということをまず子どもたちにわからせる。
対面教育では、一人一人に呼びかけたり、アイコンタクトをしたりして、承認を与えることができます。オンラインでも、先生が生徒に個人的に呼びかけたり、メールのやりとりをすることができます。でも、そういうかたちで個体識別して、社会的承認を与えることができるのは、せいぜい1クラス100人くらいの規模までです。
それ以上のサイズになると、積極的に教師にコンタクトをとってくる「意識の高い学生」とはコミュニケーションがとれるけれど、そういうことができない「引っ込み思案の学生」とはコミュニケーションがとれません。ましてや、教師はテレビカメラの前でしゃべるだけで、それをダウンロードして聴講する受講生が何千人というようなサイズの授業の場合は、交話的な営みは構造的に不可能になります。
メッセージをどの文脈で受け取るかが一番たいせつ
それでは教育的コミュニケーションとしては成立しない。というのは、教育的コミュニケーションの場においては、学びへの開かれは「あなたはそう言うことで何を言いたいのか?」という問いのかたちをとるからです。
あるメッセージについて、それをどういう文脈で了解するのかということを子どもたちはまず決定しなければならない。それはジョークなのか、引用なのか、遂行的な命令なのか、一般論なのか……メッセージという「なまもの」をどういう「額縁」の中に収めるか。それがコミュニケーションにおいて一番たいせつなことなんです。
例えば「なんで昨日帰ったの?」という問いの意味は文脈によって解釈の仕方がいくつもあります。昨日帰った理由について訊いているのなら、その場合には「体調が悪かったから」とか「法事があったから」とか、そういう返答を用意しなければならない。帰りの交通手段を訊いているのなら「バスで帰った」とか「地下鉄で帰った」と答えなければならない。相手が帰ったことを非難しているのなら、「ごめんなさい」とか「関係ないでしょ」とかそういう返答になる。
相手のメッセージをどういう「額縁」に入れて解釈するかということは死活的に重要です。これを間違えると社会生活を円滑に営むことが難しくなる。