※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 9杯目』の一部を再編集したものです。
「生命の誕生に立ち会える」看護師を目指すと決めた瞬間
(これ、本物の赤ちゃんだったら、私はできるだろうか)
目の前では講師が人体の模型や赤ちゃんの人形を使って、出産の手順を説明していた。すでに出産の手順はビデオで理解していたつもりだった。
出産とはつつがなく子どもを取りあげて当たり前。何か失敗をしたら取り返しのつかないことになる。母子の後ろには誕生を楽しみにしている人たちがいる。
その責任を感じて、突然怖さが湧き上がってきた。
1983年春、京都大学医療技術短期大学部に入学直後、実習が始まったときのことだ。
中村は1961年に米子市で生まれた。はっきりと看護師になりたいと思ったことはない。女性として自立して生活するため、手に職をつけなければならない。看護師は一つの選択肢となった。
「自分が看護に携わるというイメージはなかったんです。進路を決めなきゃいけなくなったとき、担任の先生から(鳥取大学)医療技術短期大学に行けば、看護師はもちろん、助産師にもなれる。(卒業後、編入して)大学に一年行けば養護教員にもなれると言われました。
保健室の先生もいいかもねぇっていう軽い気持ちでした。何より自宅から自転車で通える距離に学校があったんです」
鳥取大学医学部附属病院の産婦人科の実習で分娩を見学、心を動かされた。
「感動しました。生命の誕生に立ち会えるって素晴らしいと思いました」
鳥取大学医療技術短期大学部を卒業後、助産師の免許を取得するため、京都大学医療技術短期大学部に進んだ。
「(鳥取大学医療短大の実習では)あくまでも見学者だから、後ろで見ていて子どもが生まれて、ああ良かった、でした。ところが自分が主体的にやることを考えたら、はたと、怖っ、みたいな。赤ちゃんを自分一人で本当に取りあげることができるんだろうかって」
人形での実習の後、先輩の助産師と一緒に出産の現場に入ることになった。
「二人羽織みたいな形で一緒にやってくれるんです。そのときは夢中でやっているので怖くはなかったです。実際にやっていると徐々に慣れて上達してくる」
新生児の心拍などに気を配りながら、母体に傷がつかないよう新生児の身体の位置を動かして取りあげる。それが助産師の技術である。力は必要ないんです、と中村は言う。
京都大学医療技術短期大学部を卒業、助産師の資格を取り、故郷の鳥取大学医学部附属病院の看護部に入職した。
「20代は、仕事よりもプライベートのことばかり考えてました。産婦人科は明るい先生(医師)が多いので、よく飲みに連れて行ってもらいました」
今は(部下に)しっかり仕事と向き合いなさいと言う立場ですけれど、私自身は遊んでばかりでしたね、と笑った。