「リテラシー」が必要なのは誰なのか

ノンフィクションライター石戸諭氏による新時代のメディア論『ニュースの未来』(光文社新書)の終章で、石戸氏は巷間に良識として流布する「一人ひとりが正しい知識を持って、メディアを批判的に読解するリテラシーが必要」との言説に、素晴らしい角度から異論を述べる。

佐藤(卓巳・京都大学教授、著書『流言のメディア史』)さんは、現代のメディアリテラシーの核心を「あいまい情報に耐える力である」と記しています。その通りだと思いますが、こうしたリテラシーは誰にとって必要なのかをもっと考える必要があります。「広く、あまねく、社会」にとって必要だと言えばその通りですが、それは長期的な目標になるでしょうし、若い世代から「教育」をすることによって今すぐにどうにかなるものとも思えません。どんな方法の教育が必要なのかもなかなかイメージしづらいものがあります。
そこで、こう問いを変えてみましょう。まずもって「あいまい情報に耐える力」が必要なのは、あるいは高める必要があるのは誰なのか。僕の考えはこうです。それは志すものも含めてライターや編集者、映像制作に関わっているニュースの発信者たちである。
(『ニュースの未来』pp.273-274)

次の世代に学習を押し付けている場合か

毎日のようにSNSで怒りを表明し、感情の連帯を強め、インフルエンサーになることも大切ですが、現場に足を運んだり、立場の異なる人間と対話をしたり、方法を考えることで研ぎ澄まされていく「複雑さ」への感覚はもっと大切です。いつだって急いでニュースを出すのではなく、一旦立ち止まって、考える時間を大切にするニュースを出す割合をちょっとずつ上げていくこと。速く伝えるニュースと、答えのない時間を耐えた後に出すニュースを使い分けること。そんな力を積み上げた先に、良いニュースへの道は切り開かれるのではないでしょうか。(同 p.275)

「フェイクニュースに騙されないように、メディアリテラシーを身につけましょう」なんて、次の世代に学習を押し付けている場合じゃない。まずはいまここにいる大人たちがリテラシーの核心たる「あいまい情報に耐える力」を持ち、数字に潰れず潰されず、良い報道をあきらめずに闘い続けることで、土壌が耕されて肥沃で豊かなカルチャーが生まれるのだろう。

だから、大人たちが自分は賢いつもりで下世話な情報に群がったり、SNSで他人や自分を貶めたり、不確実な情報に踊らされて我先に吹聴したりするのをまずやめて、ちゃんと賢い大人になることから「まともな未来」は始まる、ってことだ。

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