第3の試練は、06年の偽メール事件である。衆議院予算委員会で民主党の永田寿康が示したメールが偽と判明し、前原代表の辞任に発展した。信用して永田の質問を容認した国対委員長の野田も大きな傷を負った。議員辞職した永田は09年1月に傷心のまま自ら命を絶った。

野田は『民主の敵』に「信頼しきっていた」「私自身の甘さは、今でも痛感」「私は生涯、この重たい十字架を背負っていく」と書き綴っている。

第4の試練は、08年9月の代表選出馬問題だ。代表は小沢で、前年の参院選で参議院第一党を実現し、民主党全体が小沢体制の下で政権交代実現を目指して盛り上がっているときだった。「小沢無投票再選」が党内世論だったが、野田は「代表選実施・出馬」を企図した。

武正公一衆議院議員

松下政経塾5期生で野田グループの武正公一(現衆議院議員)が回想する。

「合宿をやったり、『ニッポンまる洗い』を唱えて8つの政策をまとめたりして準備を進めてきた。小沢代表との勝負については、野田さんは『胸を借りる』と表現していた。だが、出馬断念となった。記者会見に立ち会ったが、野田さんの無念さはいまも脳裏に焼きついている」

主戦論を唱えた馬淵澄夫(後に国土交通相)は野田グループを離脱する。野田はグループ分裂という痛手を負った。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時