仕事の段取りが粗雑な代わりに、かわし方は絶妙だった。

「顧客のクレームは『おまえやっとけ』とこちらに振ってくるし、東京本社から怒られると、『おまえの責任だ』と責められた。接待が毎週2回ペースとかなり多かったんですが、面倒なセッティングから最後の勘定精算まですべて私の役割。上司はちょっと来てガハハと笑って帰るだけ。たまったもんじゃありません」

トラブルはなぜか上司が不在のときに限って起こった。器用とは言い難い寺田さんがしばしば始末書を書くハメになった。ストレスからか右の下半身全域に痛みが走り、満足に歩けなくなった。現地の鍼治療や医者にかかっても治らない。1年が経ち、たまりかねて辞表を出した。上司は「わかった」と言って受け取った。が、待てど暮らせど本社からは音沙汰がない。ほどなくして2度目の辞表を出したが、同じ状態が数カ月続いた。

最後は本社の労組に連絡した。

「かつて組合にいた頃の先輩に相談したんです。彼がようやく偉い人に話してくれた」

別件で現地を訪れた役員と1対1で話し合った。案の定、辞表のことは何も知らなかった。

「ここではもうやっていけない」

と役員に懇願した。

「独力でそこまでやらなきゃいけなかった。他人に言いたくないことを言わねばならず、ほんとにみじめな思いをしました」

役員に「環境を変えたほうがいい」と帰国を勧められた。結局、滞在は2年足らず。後任への引き継ぎは日本で行った。

「その上司も間もなく帰国しました。栄転ですよ。私の件はお咎めなし。現在、私とは別の部署にいます。彼は“流れ”を掴むのが実にうまく、偉くなる人にさっと近づき、人事情報も事前に掴んで準備していた」

結局、飛ばされた理由もはっきりせず、今も割り切れない思いは残る。ただ、右下半身の痛みは嘘のように消えた。寺田さんは苦笑しながら言った。

「やはり、身を守るにはいかに流れを読み、早く情報を掴むか、ですね。いい経験でした」

※すべて雑誌掲載当時

(小原孝博=撮影)