1973年、歴史を変えた阪神-巨人戦

阪神は、ライバルと並び称された巨人に1965年から73年まで9連覇を許しているのだから、決して「ライバル」とは言えない。

巨人のV9時代は、オールスターゲームまでは阪神が1~2ゲーム差でトップだったが、終わってみたら3~4ゲーム差離されて最後は2位。そんなシーズンが実に5度もあった。

極めつきは1973年。10月20日、阪神は優勝に王手をかけた名古屋での中日戦に、エース・江夏豊さんで敗れた。

天下分け目の関ヶ原よろしく、勝ったほうが優勝となる22日、甲子園での阪神-巨人戦でも敗れ、巨人はV9を達成。阪神はまたしても巨人の後塵を拝する。

プロ野球日本シリーズ第5戦・巨人-南海/巨人V9
写真=時事通信フォト
1973年11月1日、巨人が日本シリーズ9連覇を達成。インタビューに答える川上哲治監督(東京都)

当時巨人の捕手だった森祗晶さんが、このときのことを述懐していた。

(前略)2日前の10月20日。優勝に王手をかけていた阪神は、名古屋で中日と戦っていました。

我々巨人ナインは、新幹線で大阪への移動日。ちょうど試合中に球場の後ろを通過しました。阪神は勝って優勝を決めると思ってましたが、スコアボードを見たら負けていました。

さらに驚いたのは、この試合で阪神の先発は、ローテーションを変更して、中日に相性の良い上田(次朗)ではなく、江夏を起用していた。これは私の推測ですが、阪神はエースの江夏に優勝の花を持たせたかったのかも、と思いました。

先発が入れ替わり、我々との最終戦は上田が先発でした。正直、楽な気持ちになった理由はこれでした。気負うことなく、甲子園に乗り込み、特に苦手意識のなかった上田を1回から打ちまくりました。私もあの試合は3安打しました。

こちらは(高橋)一三が完封。優勝の懸かった試合が、9-0のワンサイドゲームとなり、怒ったお客さんが試合後、グラウンドになだれ込んできました。

いつもなら試合後はマウンドに駆け寄って投手やナインと握手するのですが、慌ててベンチに戻りました。

もしあの試合、先発が江夏だったらどうだったか……。巨人の歴史がどうなっていたか、分かりませんね。

忘れられない一戦です。(日刊スポーツ、2021年5月15日)

いや、阪神の歴史も変わっていただろう。王・長嶋のONがいた巨人の9連覇を、阪神の「黄金バッテリー」江夏豊・田淵幸一が止めていれば……。

結局、巨人のV10を阻んだのは中日だった。

そして高く険しい巨人の牙城を崩したのは広島だった。昭和50(1975)年・54年・55年・59年と優勝し、「広島時代」を築き上げたのだ。

連覇を逃した責任は僕にある

当然、僕も巨人を意識した。「巨人を倒してくれ!」という阪神ファンの強い気持ちも感じていた。とくに甲子園球場の阪神-巨人戦は特別な舞台で、燃えるものがあった。甲子園の阪神ファンのみなさんが声援と応援であと押ししてくれた。

当時、僕と同年代の巨人の投手には江川と西本聖がいた。田淵さんも僕も「巨人戦シーズン2ケタ本塁打」を目標にしていて、田淵さんは2度、僕は3度達成した。

先述の森さんは「阪神は特別な相手だった」と語っていたし、王貞治さんでさえ、「甲子園でやる阪神3連戦は精神的に疲弊する」と話していた。

バース・掛布・岡田の「バックスクリーン3連発」に象徴される昭和60(1985)年の優勝。「60年代こそ阪神の時代」だと、僕ら阪神ナインも吉田義男監督も意気込んだが、優勝翌年は僕もケガをしたりして、連覇できなかった。連覇していたら、阪神の歴史は変わっていたに違いない。

1986年以降、2003年に優勝を遂げる前年まで、17年間で実に10度の最下位。Aクラスは2度しかなかった。

誤解を恐れずあえて言うなら、やはり江夏豊・田淵幸一という阪神投打の二枚看板にも責任はあると思う。彼らは最後まで縦縞のユニフォームを着て辞められなかった。これは球団だけの責任ではない。

そして「巨人戦シーズン2ケタ本塁打」(計3度)を打つなかでチームの優勝を目標にしていた僕も33歳で現役を引退した。僕にも責任は当然ある。