中国の「南北朝時代」(439-589)は、「半端ない規模で人が死ぬ」「ヤバい時代」だった⁉ 実態はいかなるものだったのか。通史『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書)を書いた会田大輔さんに、中国ルポライターの安田峰俊さんが聞いた――。
中国の洞窟壁画
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日本でもよく知られている三国志の物語は、司馬氏の西晋により280年に三国が統一されて幕切れを迎えた……。が、それから遣隋使や遣唐使で知られる7世紀の隋・唐まで、中国史の知識がすっぽり抜け落ちている人も多いのではなかろうか。事実、三国志と隋唐時代に挟まれた約300年間の中国は、目まぐるしく王朝が移り変わる動乱の時代だった。

まずは西晋が内紛で崩壊し、中国北部で異民族の小王朝が乱立(五胡十六国)。やがて鮮卑せんぴ族の北魏ほくぎが台頭して5世紀なかばに華北を統一する。いっぽう中国南部は晋の皇族が亡命政権(東晋)を樹立後、王朝が宋・斉・梁・陳と続いた。北族(遊牧民)の北朝と、漢民族の南朝が対峙たいじする「南北朝時代」である。やがて北朝の系統である隋が中国を再統一した。

北方の遊牧民が、漢人と衝突し、融合した時代

——今年、日本史の世界では清水克行先生の『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)が話題になりましたが、中国の南北朝時代も別な方向でアナーキーです。少年皇帝が即位する→親族や軍人がクーデター→帝位を簒奪さんだつ→前皇帝を暗殺→一族や関係者を粛清……というパターンが繰り返され、半端ない規模で人が死ぬ。すごく「ヤバい時代」です。

【会田】そうですよね。遊牧民が大量に入ってきて漢人と衝突し、融合していった時代ですから、現代の価値観からするとおかしな人や不思議な人がいっぱい出てくる。自分が研究している時代の概説書を書いてみて、われながら「ヤバい時代」という形容にうなずくところがあります。

——しかも、残酷さの程度は遊牧民の北朝も漢民族の南朝も変わりません。本書のエピソードでいいますと、個人的には斉の明帝のキャラクターがしんどかったですね……。

【会田】斉の明帝は政治的には有能でしたが、猜疑心さいぎしんが強く、自身の親族でもある前代までの皇帝(高帝・武帝)の血筋をほぼ根絶やしにしました。しかし、敬虔けいけんな仏教信者であったことから、粛清を決めるとまずは焼香して嗚咽したとされています(*1)

——血も涙もない冷血漢よりも、相手を哀れんでいるのに大虐殺を続けられる人のほうがホラーです。明帝の息子の東昏侯とうこんこうも残虐な少年皇帝で、妊婦の腹を裂いたというひどい話があるようですね。結果、有力者だった蕭衍しょうえん(梁の武帝)に討たれています。

【会田】殺されたり負けたりした人は歴史書で悪く書かれるので、「暴君」の実態は判断が難しい部分もあります。似たような悪行の話は、前代の南朝宋の少年皇帝だった後廃帝にも伝わっています。彼も宋末の権力者である蕭道成しょうどうせい(斉の高帝)によって廃されています。

(*1)『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』85ページ