台湾問題と南北朝時代の類似性
——184年の黄巾の乱の発生から(西晋の短期間の統一を除くと)589年の隋による再統一まで、中国は延々と分裂状態が続きました。南北朝時代の人々の間で、そもそも「あるべき形」の中国とはどんな形がイメージされていたのでしょうか。
【会田】これは非常に熱いテーマです。南朝の場合は、亡命政権だった東晋までは華北を奪還する意思を明確に持っているのですが、やがて宋あたりから怪しくなり、タテマエはさておき現実的には建康(南朝の都、現在の南京)が天下の中心だという意識になる。仮に南北分裂がそのまま続いていたら、中国が2つの国家になっていた可能性もあったでしょう。
——戦後、中華民国が台湾に移転してから、蒋介石の生前は「中国を代表する唯一の政府」として大陸反抗を夢見ていたのが、蒋経国時代の終わりから台湾化しはじめて、台北を首都にする島国に変わった経緯と似たものを感じます。歴史を知ることで現代が見える部分もありますね。
【会田】歴史は現代社会を理解するヒントになると思います。いっぽう北朝の場合は、最初はあまり統一に関心がなかったのが、社会や制度の中国化を進めた孝文帝の時代あたりから、本格的に意識しはじめます。
——遊牧民だった頃は無関心だったのに、「中国人」に変わると中華の統一に欲を出す。初期の中国共産党が、少数民族地域の分離独立権まで認めていたのに、政権が安定すると辺境まで支配したがるようになったのとも通じるところがあります。
【会田】なるほど。
——そういえば、遊牧民主体だった北朝が中国化するにつれて儒教統治、徳治主義的な傾向を見せていった様子も、インターナショナルな共産主義政権が中華ナショナリズム政権に変わってからの中華人民共和国の姿とよく似ているような……。
【会田】そこらへんを読み取っていくのは、歴史を学ぶ醍醐味のひとつでしょうか。中華圏の人々は、歴史に自分たちを重ね合わせていて、明らかに意識して行動してますよね。
自分が「つなぎ」だと思って過渡期を生きる人はいない
——本書の帯には「三国志と隋・唐の間をつなぐ」とあります。事実、正史の『三国志』は、429年に宋の裴松之が詳細な注釈を入れてエピソードを大量に追加したことで、後の小説『三国志演義』のモチーフになりました。同じく三国志の基礎的な史料『後漢書』の完成も437年ごろ。つまり、この時代までは三国志がすこしだけ続いていた。
【会田】范曄が『後漢書』で描いた、魏晋南北朝時代の貴族の源流の一つと言われている後漢末・三国時代の名士たちの描写は、当時そのままの姿ではなく南朝の貴族社会の価値観が反映されていたとも言われていますね(*4)。
(*4)安部聡一郎「党錮の「名士」再考 貴族制成立過程の再検討のために」(『史学雑誌』111-10、2002)