「殺生関白」とそっくりなエピソードは事実だったか
——代々似たようなことばかりやっている……。と思いましたが、よくよく考えると、「妊婦の腹を裂く」という悪行は日本の「殺生関白」豊臣秀次がらみの俗説にも出てきます。紋切り型の話すぎて、真偽が怪しい気もしてきますね。
【会田】そうなんです。歴史的な暴君の象徴みたいなエピソードで、事実とは考えにくいところもある。そのため、「妊婦の腹を裂く」という悪行については、拙著には記載しませんでした。
同じく、女性がらみの乱倫の話も事実であるかは注意する必要があります。そもそも暴君に限らず、史書に出てくる個人的エピソードがどこまで事実に近いかというのは判断が難しいところがあります。とはいえ、その手の話をすべて削ぎ落とすとつまらなくなりますから、一般書として通史を書くうえでは悩ましい問題なのですが……。
——東昏侯を討った梁の武帝は敬虔な仏教信者で、南北朝史のなかでも名君だったとされます。しかし、彼ですら、やはり王朝をひらいた時点では、それまで形式的に帝位につけていた当時15歳の少年皇帝(斉の和帝)を殺している。救いがありません。
【会田】当時の南朝のひどい話は、貴族社会の成立にも大きく影響されています。貴族が牛耳る社会ですので、皇帝の家格が臣下の有力貴族よりも低いといったことが普通にある。そうした国家のなかでどう生き抜くか、どう政権を維持するかという課題のなかで、激しい闘争が繰り広げられたわけなのです。
暴君がすくない「弱国」から隋唐帝国が生まれた
——北朝の場合はいかがですか。こちらも残酷・乱倫エピソードは事欠きません。例えば本書の話ですと、北斉の文宣帝は相当な暴君に思えます。「北斉」は北魏が東西に分裂した後に東魏に代わって成立した国ですね。
【会田】北朝の支配層は北族(遊牧民)によって押さえられていました。権力闘争も皇族や北族間でおこなわれていました。ただ、やがて孝文帝改革(北魏の孝文帝による漢化改革)を通じて貴族制が導入されたので、漢人の貴族も力を持ちはじめます。北斉の時代には、漢人貴族と北族系の勲貴(創業の功臣)、さらに皇帝一族に加えて、「恩倖」(皇帝の寵愛を受けた功臣子弟など)の三つ巴ならぬ四つ巴の権力闘争が起きていました。
——北斉の文宣帝は、父親の側室・爾朱氏に手を付けようとして拒否されたので殺害、さらに人望のあった弟2人を鉄籠に入れてめった刺しにしてから焼殺、加えて前王朝の北魏の皇族らも大量に殺害して数千人を粛清しています。いっぽう、座禅を好み、僧侶と交わって菩薩戒を受ける敬虔な仏教徒でもあった。わけのわからない人です。
【会田】文宣帝はめちゃくちゃな人物なのですが、北族系の勲貴や皇族を殺すことで帝権の強化を図った可能性も指摘されています。一見すると暴政に見える行為も、すくなくとも彼本人のなかでは、なんらかの狙いがあったのかもしれません。でも、やりすぎですよね。しかも結果的に、北斉は内紛で消耗してしまいますし(*2)。
——結果、ライバルの北周(西魏の後継国)よりも国力が高かったはずの北斉は権力闘争で半壊。そこで漁夫の利を得たのが北周です。この国はやがて華北を統一し、やがて代わった隋が中国全土を再統一することになります。
【会田】北周は、最初は弱国でした。漢人貴族は二流の連中しかおらず、北族もパッとしない連中が集まっていた。寄せ集めの集団なので、それほど激しい権力闘争が起きなかった。その結果が、ひいては隋唐帝国につながったということでしょう。ちなみに隋の初代皇帝である楊堅(煬帝の父)は北周の外戚、唐の初代皇帝の李淵の父も北周の重臣で、いずれも鮮卑族の影響が強かったとみられる家系です。
(*2)『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』212ページ