嫡子を産んだ母親は殺される残酷な制度

——すこし時代をさかのぼりましょう。北朝の北魏の帝室では、皇帝の嫡子が決まると、その生母を殺害するという「子貴母死しきぼし制」が制度化されていました。もちろん現在とは価値観が異なった、約1600年前の中国の話とはいえ、これは恐るべき制度です……。

【会田】遊牧民の社会は母親に力がありますから、それを克服したかったのでしょう。実際に「子貴母死制」の導入後、北魏では数十年にわたって皇太后や外戚の専横はありませんでした。でも個人的な感想を言えば、やっぱりひどいと思います。ちなみに、前漢の武帝が外戚をはびこらせないために幼い皇太子の母親を殺した前例がありますが、漢王朝はこれを制度化したわけではありません。しかし北魏では、個性的な初代皇帝・道武帝がこれをおこない、さらに息子の明元帝も続けたことで、制度として事実上定着しました(*3)

——この制度には遊牧民の鮮卑族の伝統も関係していたのでしょうか。

【会田】いや……。母親はすごく重要な存在ですから、殺すという発想は遊牧民の社会にも本来ありません。漢人の社会にも当然、親孝行の観念がある。いずれの社会にも存在しないものが、道武帝の個性によって生み出された。必然的なものではなかったはずです。

——後宮で暮らし、嫡子を産んだら殺されることを知りつつ妊娠・出産する女性の心理を想像すると、やりきれないものを感じます。

(*3)『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』32ページ

皇后は子供を産まない

【会田】後宮の女性は、当然ながら皇帝を拒めません。しかも実例を見る限り、正妻たる皇后は嫡子を産んでいないのです。子貴母死制が適用されたのは、多くの場合は漢人の女性で、後宮内の序列もあまり高くありませんでした。皇后を殺すのは、さすがにまずいということだったのでしょう。

——いっそうやりきれない話ですね。

【会田】はい。後宮にはいろいろな女性がいたわけです。滅ぼした国の皇帝の娘とか、遊牧民の柔然からやってきた女性とか。あと、犯罪をおかして殺された人物の娘や親族の女性たちもいる。また、子貴母死制によって実母を失った皇帝も寂しかったのか、その代替行為として、保母に「皇太后」の称号を贈ったケースもあります。

——南北朝時代は、中国史のなかでは女性が政治的な影響力を発揮する機会が多かった時代だったとも言われますが。

【会田】そうですね。例えば高校の世界史教科書にも出てくる均田制を創出したのは、幼少の孝文帝に代わって権力を握っていた馮太后ふうたいごう(文成帝の皇后)という女性です。また、孝文帝の孫の時代に権力を握った胡太后は、対象を皇族に嫁いだ女性に限定していたとはいえ、現在でいう「DV防止令」を出していたという驚くような話もあります。しかし、一概に女性の活躍した時代だったと無邪気には持ち上げられない、ひどい現実も存在したのです。