1945年3月10日の東京大空襲で家は焼けてしまったが、徴兵から帰ってきた鐘幸はまた商売を始める。新橋で露店を開いたのだ。転んでもただでは起きない男である。

終戦から間もなく、いまも駅前にあるニュー新橋ビルを経営する新橋商事がバラックを建てると宣言し、新橋周辺の整備計画に乗り出した。抽選で当たった露天商たちを集めて、商店が並ぶエリアを作るという。鐘幸も申し込んだが、外れてしまった。

ところが、隣にいた露天商が本業に戻るからと言って入居の権利を譲ってくれた。1946年、新生「蛇の新」が誕生する。

「3坪くらいの小さな店でしたよ。親父おやじは何でも作っていましたね。寿司屋って言っても、お米が手に入らなかった時代ですからね」

夢を語り合う希望の場

当時、NHKが内幸町にあり、近隣には東京新聞もあった。失明の危険性があるメチルアルコールを平然と出す店もある中、「蛇の新」ではまともな酒が飲めるという口コミが広がった。インフルエンサーになったのは、東京新聞で当時の人気小説家、富田常雄(代表作『姿三四郎』)を担当していた記者だった。

富田がやってくると、評判を聞きつけた太宰治や坂口安吾がやってきた。新聞小説で、挿絵を担当する画家たちもやってきた。当時の活況をエッセイストの矢口純が記した文章を、幸一が見せてくれた。何かの雑誌に書いたものらしい。

1948年、婦人画報社に入社したばかりの回想――「粗末な酒場に行くと、駆け出し記者の私にも一目でわかる著名な作家、画家、写真家、音楽家、ジャーナリストが、それこそ目白押しになって酒を飲んでいた。まことに壮観であった」。

飲み会での乾杯シーン
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この「粗末な酒場」こそが「蛇の新」で、写真家の土門拳、江戸川乱歩に吉行淳之介といった作家たちがなぜか同じ時間帯にいた夜を矢口は懐かしそうに書いている。画家たちのネットワークに連なって若き日の岡本太郎もやってきた。鐘幸は若い表現者たちに優しく、色紙を書いてもらう代わりに酒を一杯、ご馳走した。

店内に1952年11月6日に撮影したという写真と、「TARO」のサインが入った絵画が並んで飾られている。常連たちと一緒に納まっている岡本太郎と、彼がちょっと紙を貸してと言って、ささっと書いた「作品」だ。彼らにとって「蛇の新」は、夢を語り合う希望の場だった。