「失われた30年」で起きた変化

彼は東京に生まれ、東京で育った。この街の変化も見続けてきた。会社員の街・新橋は平成で大きく変化したという。

「失われた平成の30年ですかね。一番、大きかったのは。先輩が後輩を連れてきて、後輩がまた来てくれるっていうサイクルがなくなったよ。ここの暖簾を守るだけで精いっぱいになってしまってね。元気なうちに、常連の皆さんにさようならが言いたかったんですよ。ずっとかわいがってもらって、ありがとうって」

生来、職人気質である幸一は、時々、へへへっと照れ隠しのような笑いを挟みながらぽつり、またぽつりと語った。彼が体感から語った、平成の変化はおそらくその通りである。

いまからほんの30余年前、平成が始まったばかりのころ、会社員の所得は増えるのが当たり前だった。1990年、会社員の平均給与は425万円、翌91年は446万円、92年は455万円(民間給与実態統計調査)と信じられない幅で伸びていく。

バブルが弾はじけ、長期不況が始まった時でも、すぐに下がることはなかった。ところが最新、2020年は433万円で止まっている。

幸一の言葉を聞きながら、私はある大学教授から教えてもらったエピソードを思い出していた。彼が教鞭をとるのは、東京の名門私立大学である。平成も終わろうというとき、就職活動を終えたゼミ生が言った。

「来年からサラリーマンです。新橋とかで酔っ払うことになるんだろうな」

おそらくゼミ生の頭にあったのは、週末の情報番組でカメラに向かって管を巻くサラリーマンの姿だ。それを聞いた、彼は冷たく言い放った。

「いまの時代、新橋で飲めるだけで結構な勝ち組だよ」

外から見れば勝ち組の街でも、冷たい風が吹く。私もまた、この停滞する時代しか知らない。私が知っているリアルは、所得が伸びなければ、人に構う余裕は生まれないということだ。

東京・新橋の居酒屋「蛇の新」。
筆者撮影
東京・新橋の居酒屋「蛇の新」。

戦後の新橋は闇市から始まった

戦後の新橋は未来を担う若者たちが集う街でもあった。「蛇の新」は、新橋に立ち並んだ戦後の闇市から始まった。先代鐘幸は、愛知・一宮市出身で、戦前に両親と死に別れ、単身で東京に出てきた。彼もまた未来を夢見た少年の一人だった。

先代は八丁堀にあった魚屋「蛇の新」で自立の一歩を踏み出した。この魚屋は、簡単な寿司も出していたらしく鐘幸はそこで修業を積み、今の日本橋髙島屋の周辺で屋台の寿司屋を開く。仕入れは「蛇の新」で、魚に付加価値をつけるべく寿司を握った。商売の才覚もあった先代は、結婚をして八丁堀に家も構えた。そこに生まれたのが幸一だった。