日本人ならではのミュージッククリップを作り続けた

私は、当時の岡村靖幸の表現テーマを「バブル期のモラトリアム」だと読んでいるが、「バブル期のモラトリアム」に揺れ動く青年の姿をリアルに切り取った、鮮烈な作品だった。

09年5月23日、坂西伊作死去。享年51。あまりに若い。

映画『モテキ』(11年)などで知られる映画監督・大根仁は、「伊作さん監督の最高のドキュメンタリー」として、矢野顕子『SUPER FOLK SONG ピアノが愛した女。』(92年)を挙げながら、09年5月28日、自らのウェブサイトにこう記した。

坂西伊作さんが亡くなったそうだ。

誰がなんと言おうと、90年代初期の日本のミュージッククリップ界は

伊作さんがトップだった。

バカみたいに浮かれて、掛ける必要の無い金をかけ、技術とセンスばかり競い合ってたあの頃のミュージッククリップ界でただ一人、ストイックに音楽とアーティストに向かい合って傑作を作り続けた伊作さん。

本当に伊作さんだけが「粋」で猿真似じゃない日本人ならではのミュージッククリップを作り続けた人だった。

ずっと憧れていました。

資生堂がCMタイアップを開発し、定着させた

EPICソニーの音楽家のブレイクにCMタイアップが強く貢献していた。

ただEPICソニーのみならず、一般論として「80年代音楽シーンは『タイアップ』だった」と言える。CMタイアップがレコードの売上に貢献したのは、何もEPICソニーだけではなかった。

日本においてCMタイアップという手法を開発し、定着させたのは、資生堂である。

本来CMソングとは言うまでもなくそのCFに付随して存在するものであるが、これがCFから独立したかたちでレコード会社から市販され、ヒットした時、そこにもう一つの宣伝手段としての役割りが発見される。(『資生堂宣伝史 Ⅱ 現代』)

・CMのBGMで楽曲を使う
・CMには音楽家の名前を小さく入れておく
・その楽曲をレコードで市販する
・CMとレコードが相乗効果をもって話題となる

あえて説明するまでもない、今でも使われている手法なのだが、この手法のイノベーターが資生堂であり、そして、この手法が一般化したのが80年代だったのだ。

広告が楽曲を侵食していた

ちなみに「タイアップ・イノベーター」の資生堂が、70年代後半に生み出したタイアップ・ヒットが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド《サクセス》(77年)、矢沢永吉《時間よ止まれ》(78年)、堀内孝雄《君のひとみは10000ボルト》(78年)、ツイスト《燃えろいい女》(79年)など。

ここでポイントとなるのは、広告と楽曲の力関係である。80年代に入って、広告の側の力が楽曲を侵食し、結果、広告で取り扱われる商品のニオイが強いタイアップ楽曲が増えてくる。資生堂で言えば《燃えろいい女》のサビで、突然「ナツコ」(商品名)が出てくるのだが、あれは広告の力が楽曲を押し切った最初期の例だろう。