本来つながらない二者を汗をかいてつなぐ

したがって、私は自らのフィールドワークを通じて、アニメのグローバル化というものは「デフォルトで起きている」のではなく「デフォルトでは起きない」ものであるというところから発想をしなければならないのではないか、と考えるに至りました。

アニメがグローバル化しているとすれば、それは誰かが汗をかいて、いま説明したような利害対立を乗り越えることで初めて実現しているのだ、と。そして、国際共同製作のケースでは私が研究上着目している前述の「プロデューサー」と呼ばれる人たちがこの「汗をかいて」いるのではないか、と。

この「汗をかく」人の実践を理論的に位置づけるうえで「ブローカー」という考え方が有効なのではないか、と考えています。やや専門的な話になりますが、「ブローカー」とは文化人類学・社会学等の分野で議論されてきている概念で、簡単に言うと「立場の異なる人々の間を仲介するプレイヤー」のことを指します。

アニメの国際共同製作に関して言えば、「俺たち」対「奴ら」という、本来であればつながらない二つのエリアの間に入って、両者をその気にさせ、プロジェクトの最中で軋轢が起こる度に両者の間に入ってお互いの言い分を聞く。そこから妥協点を見出し、双方をなだめたりすかしたりしながら、どうにかつながりを切らさずにプロジェクトを前に進めていく、というプロデューサーの「汗のかき方」はまさにブローカー行為そのものといえるのではないかと思います。

アニメのグローバル化というのは、ブローカーの活動が起点になって発生している、と考えることができるのではないでしょうか。少なくとも、アニメのグローバル化という事象を理解するに当たっては、まずはその中でブローカー的役割を果たしているプレイヤーを特定し、彼らの活動に焦点を当てる必要があり、そこから新たに見えてくるものがありそうです。

絵を描いている人の手元
写真=iStock.com/portishead1
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かつてのアニメ製作は日本を上流とする垂直的な国際分業だった

「アニメのグローバル化をどう理解するべきか?」「それは日本・アジア・世界にとってどのような意義があるのか?」という大きな問いに対して、現在私が考えていることは以下の通りです。

結論から言えば、日本アニメ産業が全体としてアジアの下請けになりつつあるのではないかと危惧しています。歴史的に見て、日本アニメ産業は自分たちのアニメ制作工程の一部をアジア地域に外注してきました。

しかし創造産業分野におけるアジア地域の台頭により、その関係が逆転しつつあり、いまやアジア地域の制作工程の一部を日本のアニメ産業が下請けするという関係になりつつあるのではないか、ということです。

私は以前別の機会に、アメリカのNetflixの日本のアニメ産業への積極的参入は、欧米系のグローバルインターネットプラットフォーマーが日本アニメ産業を全体として下請け化しようとする動きとして理解できるのではないかという趣旨の主張をしたことがありますが、同様の下請け化の波がアジア地域からもやってきているのではないでしょうか。その意味で、現在は日本アニメ産業の自律性とでもいうべきものが失われつつある真っ最中ともいえるため、日本アニメのグローバル化の将来を楽観することはできません。

戦後日本アニメ産業が始まった1960年代から2000年代前後までは、日本アニメ産業とアジア地域との間には、アニメ作品の制作に関して、日本を「上流」とする垂直的な分業関係が成立していました。

日本側が「主」として、制作のための資金、企画、クリエイティブ資源を保持し、日本国内で放映するアニメ作品の制作工程のうち、動画などの「簡単」な作業の一部をアジア地域に外注に出していました。その方がコスト的に安かったからです。アジア地域のプレイヤーはいわば日本アニメ産業の「従」たる立場で、日本国内のアニメビジネスの下請け仕事を請け負う、という分業関係でした。