アニメのグローバル化は「起こす」もの

日本とアジアの国際共同製作にフィールドワーカーとして関わる中で痛感したのは、「アニメのグローバル化は放っておいてもひとりでに起こるようなものではない」という、ある意味当たり前の事実です。

日本でのアニメビジネスのやり方と、ほかのアジア諸国におけるアニメ関連ビジネスのやり方は大きく異なるケースが多いため、日本のアニメ業界人はそういう「馴染みのない」海外の相手とは基本的にビジネスをやりたがりません。

お互いの流儀が相容れなければプロジェクトが空中分解してしまう可能性も大きく、そんなリスキーなことに時間とお金を費やすくらいだったら、「馴染みのある」国内の相手と日本国内でビジネスをやっておく方が無難だ、というわけです。商習慣の違いに起因する「俺たち」対「奴ら」という二項対立的な軋轢がアニメのグローバル化を阻む障壁となっている、と言い換えても良いでしょう。

アニメのグローバル化とは、誰かが汗をかいて「俺たち」と「奴ら」との間を取り持ち、両者をつなぐことで初めて成立するものである、ということを私は自身のフィールドワークを通じて知ることができました。つまり、アニメのグローバル化とは「起こっている」ものでなくて「起こす」ものだということです。

アニメビジネスの現場では言われるまでもないほど当たり前の話だろうと思いますが、これまでのアニメ研究のように、インターネット空間におけるファンやクリエイターの和気藹々わきあいあいとした協働だけを見ていると、この「当たり前」には気づきにくいのかもしれません。お互いの利害がむき出しでぶつかるアニメのビジネス面を直視することで初めて見えてくるものといえるでしょう。

アニメのグローバル化は利害対立に満ち溢れている

例えば、何らかの売買契約を結ぶときに、最初に高い金額を吹っかけてから現実的な金額に落とし込んでいくという交渉スタイルは受け入れ可能でしょうか?

また、金額を値切ろうとしたり、納期をどんどん遅らせたり、前もって計画を立てずに泥縄式にものごとを進めるような仕事の仕方はどうでしょうか?

私がインドでフィールドワークを行った別の研究プロジェクト(インドへのアニメマーチャンダイジング展開に関する研究)では、インド側のこのような対応が何度も問題になりました。これらの仕事の仕方は、日本のアニメ産業界の相場観からすると「信用ならない」し、場合によってはとても「無礼」なものに映ります。

文字盤に「DEADLINE」と描かれている時計
写真=iStock.com/AndrewJohnson
※写真はイメージです

アニメ作品の国際共同製作のケースでも同様です。アニメーターから上がってきたカットにOKを出すかリテイク(描き直しの指示)を出すかというごく基本的な制作上の一プロセスを取ってみても、その意思決定を誰が、いつ、どうやって出すのか、そしてその意思決定の責任を誰が取るのかという方法論に関して日本側と相手側で相場観が異なり、共同で作品制作を進める中でそのギャップがトラブルの火種になるということがよく起こっているようです。

アニメのグローバル化の現場は、このような利害対立に満ち満ちているのです。そこには、「アニメが好き」といった利他的な情熱だけではやっていけない現実が厳然としてありました。