なぜ残り10メートルで世界記録を取り逃してしまうか
北京五輪の代表選考会に来てくれと頼まれて東京辰巳国際水泳場に行ったとき、私は北島康介選手の泳ぎを見て驚いた。残り10メートルで、明らかに世界記録よりも体半分前に出ていたのだ。
「おおっ、やった!」
思わず私は立ち上がったが、タイムは世界記録に0.43秒及ばなかった。
北島のタイムを見た全日本の平井伯昌コーチが、日本選手はゴール前が弱いのだと言った。私は、原因は10メートル手前でもうゴールだと思って泳いでいるのではないかと読んだ。これを聞いた選手たちは、当然のことだが、自分たちは必死で泳いでいるのにという態度を示した。
私が、「全力で泳いでいない」と言ったのには訳がある。脳の機能は「ゴール間近だ」と思った瞬間に低下し、それに伴って運動機能も低下するのだ。脳の自己報酬神経群という部位の仕業である。
自己報酬神経群とは、その名の通り「自分へのごほうび」をモチベーションに働く部位であり、この部位が活発に働かないと脳は活性化しない。
重要なのは、活性化はごほうびが得られたという「結果」によって起こるのではなく、ごほうびが得られそうだという「期待」によって起こる点だ。ごほうびが得られた、つまり結果を手にしたと思うと、むしろ脳の機能は低下してしまうのである。
集中力を持続するには、この脳の仕組みを利用すればいい。ゴールの仕方に集中する。あるいは、目標よりも遠くにゴールを定めるのだ。そうすれば、実際のゴールの手前で脳のパフォーマンスが落ちることはなくなる。
私は平井コーチに、この脳の仕組みを説明した。コーチと北島選手が取った対策は巧みだった。プールの壁をゴールだと思うのではなく、壁にタッチした後、振り向いて電光掲示板を見た瞬間をゴールだと考える訓練を重ねたのだ。
この私のアドバイスから1カ月後、北島選手は見事、世界記録を塗り替えた。