これでは「表現の自由」も形無しだ

今回の騒動はもちろん憲法上の「表現の自由」の問題などではない。しかし市民が多少の不愉快さや感情的動揺を根拠にして「社会的に望ましくない」「取り下げるべき」などと表現者に対して究極的な措置を要求したり、企業側がそのようなヒステリックな声に弱腰に従ったりしてしまうことは、市民社会のなかにある「表現の自由市場」を委縮させ、その実質性を損なう行為であることを、表現を生業とする者は肝に銘じておかなければならない。いわゆるインフルエンサーなど世間に対して表現を発信する者が、多少の批判や非難を受けたくらいで誹謗中傷だの裁判だのと言い募るのも、市民社会の自由な表現の場を委縮させるという点では同じことだ。

国家権力からもぎとった「表現の自由」を、精神的な脆弱ぜいじゃく性や性急に処断を求める思慮の浅さによって、自分たち自身で損なうような真似をためらいなくするようでは、せっかくの「表現の自由」も形無しである。そのようなふるまいをする未成熟な者たちにとって、近代社会の「自由」という概念は過ぎた代物だったと言わざるを得ない。

「市民の感情」はSNSで驚異的な権力になった

SNSが人びとにとって当たり前のコミュニケーションインフラとして普及したことによって、望むと望まないとにかかわらず、人びとはある種の「政治性」を持つようになった。

自分ひとりのちょっとした不快感の吐露が、ふとしたきっかけで多くの人びとの共感・共鳴を得た場合、それはもはや個人的な問題ではなくて社会的な問題となり、そして社会的な問題が場合によっては政治的な問題にすら発展してしまう。たとえるならば、すべての人がSNSを介して、いうなれば「市民の感情」という巨大な権力の源にアクセスしている状況となっている。

SNSのイメージ図
写真=iStock.com/metamorworks
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SNSによって統合された「市民の感情」は、ときには個人的な問題を政治的な問題にまで昇華させる力となることもあれば、個人の社会的生命を完全に破壊する獰猛な姿を見せることもある。これは旧来の社会には存在しえなかった驚異的な権力である。人間社会に「法秩序」のルールを築いた近代の人びとは、現代社会におけるこのような力の誕生を予想してその設計図を描いてなどいなかった。

SNSによって統合され、社会や政治を揺るがすほどに大きな影響力を持つようになった「市民の感情」を、当の市民社会が適切に制御しきれているとは私はまったく考えていない。もし十分に制御しきれているならば、駅にほんの一瞬だけ表示される「今日の仕事は、楽しみですか。」程度の広告表現を、寄って集って叩き潰すような真似はしていないからだ。