つるむことの気持ち悪さ
【角田】「記号論」の授業でなるほどって思ったんだけど、「『共感すること』と『差異を感じること』というのは実は同じだ」って言うんだ。『想像の共同体』にも書いてある通り、ナショナリズムがなぜ生まれるかと言うと「他の国民がいるから」なんだよ。他の国民がいるから、「自分たちでまとまろう」ってなるわけ。
でも「自分たちでまとまってひとつになろう」ということに共感するってことは、「他者との差異をつける」ってことでもあるじゃん。だから、差異をつけることと共感をすることは、実は一緒なんだよね。
その差異って、どんどんいくと差別に繋がるじゃん。オンラインサロンとかで「俺たちスゲェ」って言ってるのも、高校野球とかで「我が校の伝統」とか言ってるのも、若干気持ち悪い。「TBS魂」とか言われるのも「ワンチーム」とか言われるのも、ちょっと気持ち悪いと思ってたんだけど、「そのものが気持ち悪い」んじゃなくて「その他を差別することが気持ち悪い」んだなって、その話を聞いて初めて理由が分かった。
「このチームのために頑張ろう」は、そんなに気持ち悪いと思わなくていいじゃん。なんで僕が生理的に気持ち悪いんだと思ったら、「このチーム以外の人は幸せにならなくてもいい」って言ってることと同じだからなんだなって。
つるむことの気持ち悪さって、本質的にはそこだという感覚が僕の中にある。同じように左翼だろうが右翼だろうが単純に僕の中では政党って気持ち悪いんだけど、それはやっぱり「つるむこと」への気持ち悪さなんだって思う。でも「共感と差異が同じなんだ」って聞くまでは理由が分かんなかったよ。
『映像研には手を出すな!』の女子高生が敬称を付けて呼び合う理由
【加藤】この三五年間、俺らはつるんでたのかな?
【角田】ものは言い様だけど、「適度な距離感」なんじゃない? 適度な距離感の具体例として「加藤くん」「角田くん」って呼んでるじゃん。ムーンライダーズでもそうだけど、この「くん」付けで呼んでるのってすごい好きなんだ。よく言えば「リスペクト」とも言えるし、「わざと距離を作ってる」ってことでもある。
さらに言えば、相対化という意味では「差異を生むまい」としてるんじゃないかな。
共感しすぎないし、互いを見下さないみたいな距離感が、「加藤くん」「角田くん」って呼んでるところだと思うわけですよ。だから僕らは、定義としては「つるんでない」んじゃないかな。
【加藤】相手に敬称をつけると云えば、『映像研には手を出すな!』では女子高生同士が「○○氏」って敬称をつけて呼んでたりして。ここにもつるんでる感じがあるけど、ちょっと違うのかな?
【角田】多分、ああいうオタク文化で「○○氏」みたいに言ってるのは、同質な文化の中でお互いの線引きを作るためにわざと敬称をつけていたんじゃないかな。
【加藤】似てるんだけど、完全に同質化することを拒否するとそうなるってことか。
【角田】そう。自分の中に細胞膜みたいなものを張るために、相手をあだ名で呼ばない、わざと敬称をつけてたんだと思う。
同質な人たちってそうしないと喧嘩になるじゃん。韓国と日本がなぜ仲悪いかと言ったら、似てるからでしょう。日本とアフリカのどっかの国くらい違うと喧嘩にならないわけでさ。似てる者同士のほうが喧嘩になっちゃうんだよ。フランスとドイツにせよ、隣同士の国が喧嘩になるのが当たり前なのは、やっぱり似てんだよ。