41歳のときには本社からワールドワイドの開発製造責任者として招聘された。7000人の部下を束ねる重要ポストへの大抜擢だった。ここで1人のアメリカ人上司と出会う。

「その上司は2年間の在米中、ぼくに対して一度も声を荒らげたことがなく、常にほめてくれました。ぼくが何か判断すると、これはいいねえ、君じゃなければできないね、と。そういわれると人間って、すごく頑張るんです。

ただ、ぼくも弱点の部分はあまりいい判断ができない。その部分についてはほめたあとに、ここはちょっとこう変えたほうがいいんじゃないかと軽くいう。すると、弱点の部分は徹底して勉強しようという気になる。ぼくは日本にいたころは部下に対してきつい言葉を吐いたり、手を上げたりしました。でも人間はほめないと伸びない。その2年間はものすごく育てられ、伸びた時期だと思います」

帰国後、45歳で副社長に就任し、次期社長が確実視された。ところが、思わぬ展開が待ち受ける。坂本氏を高く評価してくれた本社のトップが急逝。新経営陣は日本法人の新社長として社外の人材を登用した。

「そのまま残れば、次の社長になる可能性もありました。ただ、自分としては尊敬できる人の下で仕事をしたかった。年齢的には当時50歳。もう一度、力を試してみようと退社を決断したのです」

ここから“再建請負人”の道が始まる。