飲食店を営む友人はコロナで逝った
私事で恐縮ですが、新橋でアイリッシュバーを営んでいた大学の同期の親友Kくんは、都の設定したコロナ対策をこれ以上ないというほどの万全さで取り組んでいたにもかかわらずコロナに感染し、先月55歳の若さでこの世を去りました。
生前、彼は「国や都は、アスリートの流す汗は清潔で我々飲食業界の人間の流す汗は不潔とでも思っているのか」という魂の慟哭をSNSで吐露していました。毎回忙しい中、私の落語会にも足を運び、新刊を出す度購入してくれていた彼でした。このコロナ禍でもびくともしないような大企業勤務の友人が多数を占める中、彼とは「自営業者の悲哀」を訴え合える仲間として、共に「八割減収の八割おじさん同士だよね」という苦悩を分かち合えるという意味ではまさに同志でもありました。
それゆえにその訃報を、彼の忘れ形見である息子さんから電話で知らされた時には、カミさんと次男坊がその場にいたにもかかわらず声をあげて泣き崩れました。
だからこそ、私は個人的には今回の東京オリンピックに対しては、彼への追悼の意味合いも込めて、喪に服すつもりです。喪に服すということは、逆に言えば、オリンピック開催に関して、賛成派でも反対派でもないという立場を鮮明にしたいということであります。
「オリンピック」の枕元に死神が立っている
「喪に服す」ということはフラットな立場で見つめられるという意味でもあります。きっと天国のKくんが与えてくれたニュートラルなポジションかもしれません。心の中で手を合わせながらこの公平な立ち位置から想像しますと、きっと「『オリンピック反対!』とずっと叫び続けている人たちも、日本人選手やチームが金メダルを獲得したら舌の根も乾かぬうちに歓喜の涙を流すんだろうなぁ」ということです(無論いい悪いという意味ではありません)。
「死神」という落語があります。先日米津玄師さんが歌にしたことで今ブームとなっている古典のネタであります。
あらすじは以下の通りです。
貧乏に喘ぎ自殺まで視野に入れている男が、死神に声を掛けられる。死神は「病人の部屋に行け。足元に死神がいればまだ寿命ではない。逆に枕元に死神がいる場合は死ぬ。足元にいる場合のみ呪文を唱えれば死神は消え病人は助かる」と言い、去ってゆく。
男が帰宅し医者の看板を出すと、大店の番頭がやって来る。「あらゆる名医から匙を投げられた主人を診てほしい」とのことで行ってみると足元に死神がいた。さっそく死神に教わった呪文を唱えると主人はたちまち元気になり莫大な治療費をもらう。
この一件が大評判になり、診る病人診る病人をどんどん治してゆき、男は名医と呼ばれついには大金持ちになる。その結果、愛人を何人もこしらえ女房や子供と別れてしまうのだが、悪い女に引っ掛かり全財産を持ち逃げされてしまう。
そこから転落の人生となってゆく――つまり診る病人診る病人、みんな枕元に死神がいたのだ。男には悪評が一気に立ち上り、ますます困窮をきわめてゆく。
そんな時、ある大金持ちから声がかかる。行って見れば、案の定枕元に死神が。
いったんあきらめようとする男だったが、金に目がくらみ、ある策を思いつく。つまり――深夜枕元の死神が寝落ちした瞬間に布団の向きを変え、足元に死神がいる形にして素早く呪文を唱えるという策だ。これがうまくいき、男は死神を消すことに成功し、莫大なカネをもらうことになった。
男は帰路、最初の死神に声をかけられた。そして「まあ、いいからついて来い」と蝋燭が山ほど灯る洞窟へと連れてゆかれる。死神は「これが江戸中の人間の寿命だ」という。そして一本の消えかかった蝋燭とその隣の半分ぐらいになって燃えている蝋燭とを指さして言う。
「お前があんなことをやったもんだから、あの主人の寿命とお前のとが、入れ替ってしまったんだよ」と。驚いた男が「助けてくれ、カネをやる!」と必死に命乞いするのだが、「人間の寿命はどうにもならない」と言って去ってゆく。死神が去った後、男は燃えさしの蝋燭を見つけ、消えかかった蝋燭から必死に火をつなごうとするのだが、やがて「あぁ、消えた……」。