「面白くもない」勉強をどう続けるか
勉強は手段に過ぎない。
わたしは、いつもこのように考えて勉強を続けてきました。あくまで、自分が設定した目標を達成するための手段と割り切っていたのです。だからこそ、つねに最小限の勉強で目標を達成できる方法を模索し、それを実践してきました。
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、かつて「目的合理的行為」という概念を提唱しました。これはある結果を得るために、最適な手段を取ることを指します。
これと対比されるのが、「価値合理的行為」という概念。結果はどうであっても、自分の信条などに従って行動することを指します。
そして、この概念でいうなら、わたしはつねに「目的合理的」に勉強を続けてきたといえます。勉強が好きではなかったわたしは、このように考えないと、面白くもない勉強を続けることなんてできなかったのです。
もちろん、これはどちらが良いか悪いかという話ではありません。「価値合理的」に勉強ができるなら人生や生活はきっと充実するし、学問に魅せられて研究者を目指す道が拓かれるかもしれません。
だけど、わたしと同じように、勉強が面白く感じられなかったり、挫折しがちだったりする人がいたら、「勉強は手段に過ぎない」と声を大にしていいたい。
勉強を「目的合理的」にとらえたときにはじめて、勉強の方法も戦略も変わります。
いかにして、最大の成果を上げるか。
これがわたしの勉強に対しての考え方なのです。
勉強は「コスパ最強」
「勉強は好きではない」「楽しくもない」「手段に過ぎない」と書いてきましたが、勉強には、良いところももちろんあります。
それは、取り組んだぶんだけの成果が手に入る点です。猛烈に勉強したらすごい結果が出るだろうし、より大切なのは、ほんの少しの勉強でも、一歩ずつ前へと進んでいけることです。
たとえば、音楽やスポーツなどは、プロとして稼いで裕福に生活していけるのは上位5%程度の厳しい世界。でも、勉強は活躍できる裾野が広く、勉強さえしていればがんばったぶんだけなにかが確実に手に入ります。
つまり、たとえ勉強で上位5%に入れなくても、勉強したことが無駄になることはないのです(もちろん、音楽やスポーツの分野でも、上位5%に入れなかったからといって、それまでのすべてが無駄になるわけではありませんが)。
勉強はオール・オア・ナッシングではなく、社会にさまざまな受け皿があります。そのため、社会で生き抜いていくためには、じつは勉強はかなりコストパフォーマンスが良い方法だと見ることができます。
なにごとも、将来の目標をしっかり持っていれば、努力を続けていくモチベーションになります。でも、ぜひみなさんにお伝えしたいのは、たとえその目標に勉強が必要なさそうに思えても、勉強はしておいたほうがいいということです。