約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。
諸葛亮孔明といえば負け知らずの天才軍師のイメージが強い。だが華々しい成果を挙げた戦といえば赤壁の戦いと、7度捕らえては7度放して孟獲(もうかく)を帰順させる話で知られる南征ぐらいのものだ。実は諸葛亮はほとんどの戦いに勝っていない。勝ってはいないけれど、大きく負けてもいない。これは魏や呉に国力では圧倒的な差をつけられていたことを考えれば勝ちに等しい。国力の差を埋めたのはやはり戦略だ。全体を見渡す戦略眼と、その戦略に基づいて組み立てる戦術眼には、抜きんでたカリスマ性があった。
しかしながら『正史』の『蜀書・諸葛亮伝』をよく読むと、諸葛亮が民政の人であることがわかる。天然の要害といわれた峻険な蜀の地で、魏に拮抗できないまでも対抗しうる兵力を維持できたのは経済力があったから。たくみな統治で富を上げていたから軍を維持できたのだ。
もし曹操のような強力なリーダーの下で民政だけに専念できれば、さぞかし優れた国家を築き上げたことだろう。民政のみならず、軍事外交を含めた総合政策を担当せざるをえなかったところが諸葛亮の不幸だった。
では、なぜ当時流浪の将にすぎなかった劉備の求めに応じたのか。劉備がわざわざ山間の草庵を3度訪ねて、その礼の篤さに諸葛亮が感じ入り仕えることを承諾した「三顧の礼」は『演義』のエピソードだが、3度訪ねてようやく会えた件(くだり)は『正史』にも記載されている。
無論、たった一度の会談で双方の心が通じ合ったわけではないだろう。何度も議論を重ねるうちに、劉備の志に強く打たれ、自分の働きで天下の行く末が変わるかもしれないという思いが湧き上がったに違いない。諸葛亮という巨大な才能にとって、魏や呉のような完成しかけた器の中で歯車として働くことよりもはるかにやりがいを感じたはずだ。
諸葛亮が「天下三分の計」をしめした時点では、劉備はまだ領地を持っていない。だから長江の南側に広がる呉と手を結び、そのうえで長江中流域の荊州、さらにその奥にある要害の地・益州を手中に収めて魏と呉の二大国に伍していくという考え方は、非常に攻撃的なもので蜀の国家戦略としても正しかった。
しかし天下三分の事業が過半に差し掛かった頃、建国を担った関羽、張飛、劉備が相次いで世を去る。帝位には劉備の息子、劉禅が就いたが、まだ政治は任せられない。諸葛亮は丞相としてあらゆる職務を引き受けた。『諸葛亮伝』によれば政治の大小を問わず、すべて孔明が決定したという。南征によって現在のベトナム・ラオス国境までを平定。呉との戦いで疲弊した国力と兵力が回復すると、返す刀で北伐に向かい司馬懿(しばい)を擁する魏に5度にわたって攻め入った。
超人的な仕事ぶりを支えたのは、天下三分を完遂し、漢朝再興という劉備の志を継がんとする執念だったのだろう。
諸葛亮は5度目の北伐の際に病で倒れて亡くなったとされるが、これは過労死だったように思えてならない。