天才・立川談志も嫉妬に身をこがした
談志自身も実は相当なる嫉妬を感じ続けてきた人でもありました。その対象は最高のライバルとまで言われていた古今亭志ん朝師匠でした。
年齢では志ん朝師匠のほうが二つ年下でしたが、談志より5年遅れて入門したにもかかわらず、真打ち昇進についてはなんと談志より1年早いという逸材でした。しかも出自はと言うと父親が昭和の大名人とまで謳われた志ん生師匠の次男、つまりサラブレッドでもありました。
5年そこそこで真打ちにまで駆け上がってゆく志ん朝師匠に対して、談志は激しい嫉妬心を抱きました。志ん朝師匠の方に先に真打ち内定の声がかかった時にはその悔しさから「早すぎる! 断れ!」とまで本人に迫ったとのことでした。それに対し志ん朝師匠も志ん朝師匠で、談志に向かって「いや、アニさん、俺は実力で昇進したと思っている」と言ってのけたといいます(いやはや天才同士ですね)。
その後この二人はそれ以後の落語界の屋台骨を背負い続けることになりますが、その行く末はとても対照的でありました。志ん朝師匠は古典の王道から離れることなくひたすら正統派の道を邁進しますが、談志はその後、落語家として初めてのベストセラー『現代落語論』を著し、落語の理論化を唱え、さらには国会議員にまでなり、しばらくして落語協会から離れて立川流創立へと舵を切ってゆきました。
悔しかったら前向きなエネルギーに変えろ
正反対のような二人の天才でしたが、この軌跡を俯瞰で見つめると、談志が「嫉妬」を前向きなエネルギーへと変換させ続けてきたからではと推察できないでしょうか?
談志が落語協会に居座り、ずっと自らが定義した「嫉妬」に縛られ続けていたのならば、立川流はできなかったはずですし、もし立川流ができなかったら、我らが一門は生まれなかったはずです。
ここで、冒頭からの話を持ってきます。
今談志が生きていたなら日本人の宿痾ともいうべき「嫉妬」について「悔しかったら前向きなエネルギーに変えてみろ。そこにしか活路はない」とハッパをかけるはずなのではと確信します。実際、他の一門で、私より先に昇進した落語家を挙げ、私に向かって「お前、悔しくないのか!?」と詰問されたことがありました。
誰もが抱く宿業のような「嫉妬」を、前進するための燃料へと転換……なんてなかなかできないのが人の常でしょう。せめて談志の爪の垢でも煎じるかのように、あの「嫉妬の定義」だけでも念仏のように唱えてみましょうよ。「前向きなエネルギー」にはできなくても、少なくとも「ブレーキ」にはなるはずです。
そう思う人たちが一人でも増えてゆけばきっと、この国はもっと住みやすくなるような気がします。談志を見習いましょう。詳しくは、私の談志関連本をお読みください(笑)。