意地悪さの正体は「嫉妬」

かような「性格の悪さ」「意地悪」に向き合うにはどうしたらいいでしょうか?

その前に、「性格の悪さ」「意地悪」というものって、一体何なのでしょうか?

しばし、考えてみた末に、この二つを統合し、また古来古典落語の中でも長年描かれて来ているかような感情を表す言葉が浮かび上がって来ました。

それが「嫉妬」です。

落語の中で「嫉妬」は「悋気りんき」という言葉に置き換えられています。

要するに「女性のやきもち」なのですが、「悋気」を扱った落語のその名も「悋気の独楽こま」という演目があります。

あらすじは、

大店の旦那がまだ帰って来ないのを「浮気かしら」と不安に思った女房が番頭たちに行き先を聞くが、知らないと言っている。一方妾宅の旦那はというと、「今日はここに泊まるから」と、お供の定吉に言って、続けて「佐々木さんのお宅で碁を打って夜明かしするという事にしておけ」とアリバイ工作を伝え、お妾さんは定吉に口止め料を渡す。

定吉は家に帰り、本妻に「旦那は佐々木さんの家で一晩中碁を打つから帰れない」と旦那から言われた通りのことを言う。続いて、本妻から饅頭を出され喜んで食べていると、本妻は「この中には熊野の牛王さんが入っていて嘘をつくと血を吐いて死ぬ」と言われてしまい、つい恐怖のあまりお妾さんのことを喋ってしまい、さらに袖の中に独楽があるのを見つかってしまう。

「これは旦那、本妻、お妾さんの三つの独楽だ」と定吉は訴える。つまり、旦那がこの独楽を回して、旦那の独楽が本妻の独楽にくっつけば店に帰り、お妾さんの方につけば泊まることにする独楽だということなのだ。

コマ(こま)
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独楽を回すと旦那の独楽が妾の独楽にくっついてしまう。何度やってもみな同じ結果だ。本妻はきりきりして、「いや、どうしてそうなるの!」とくやしがる。定吉が独楽を調べてみると「あ、こりゃ何べんやってもだめですよ。旦那さんの独楽、肝心のしんぼう(心棒・辛抱)が狂っています」。

いかがでしたか? おそらく江戸時代にはこういう具合に女性の悋気、嫉妬にまつわる出来事多発していたからこそ、ネタにもなっていったのでしょう。

その昔は「悋気は女の慎むところ、疝気(漢方で腹や下腹部の内臓が痛む病気)は男の苦しむところ」と落語のマクラではいっていたものです。が、昨今のLGBTの立場で言うと、男性でも悋気、要するに嫉妬に駆られがちになるのは当たり前でもあります。いや、もっというと男性の嫉妬のほうが体力で勝る分だけ、かなりしつこいものなのかもしれません。

つまり、底意地の悪さを含む「嫉妬」とは、「とりわけ日本人が抱きがちなルサンチマン」なのではないでしょうか?

嫉妬しやすい国民的気質にいかに対処するか

個性という概念が欧米諸国に比べて意識しにくい環境こそが日本でもあります。

「我思うゆえに我あり」というデカルトの教えのような考え方が根底にあるならば「他人と自分とを比べるのはナンセンスだ」という意識にもつながるのでしょうが、日本の場合は、まさに落語の構成からして「お前からはそう見えるけれども、こちらからはこう見えるんだ」という成り立ちから作られています。無論これは欧米と日本との優劣ではなく、環境の差なのでしょう。

つまり欧米の人々に比べて「嫉妬」しやすい体質を先祖代々受け継いでいるのが日本人なのかもしれません。

では、「持ったが病」のようなこの「嫉妬」という国民的気質に対して我々はどう対処すべきなのでしょうか?

ここでヒントとなるのが、わが師匠・立川談志の名言です。

いわく「嫉妬とは、己が努力・行動を起こさず、対象となる人間の弱みをあげつらって自分のレベルまで引き下げる行為なのだ。一緒になって同意してくれる仲間がいればさらに自分は安定する」。

いやはや、返す言葉はありません。けだし名言とはこのことでしょう。