「非常時は非常識をやれ」世界に先駆けた日本の積極財政

【田原】世界の先進国で、財政政策を最初に変えたのはアメリカなんだ。

高橋是清(出典=Wikimedia Commons)
高橋是清元内閣総理大臣(出典=Wikimedia Commons

【藤井】いや、じつはですね、1931(昭和6)年の犬養毅内閣で4度目の大蔵大臣になった高橋是清さんが、世界に先駆けた積極財政政策を断行しています。

1931年12月に金輸出再禁止・銀行券兌換だかん停止、1932年11月から日銀引き受けによる政府支出増額(軍事予算増)、1932~1934年に「時局匡救事業」という公共事業をやった。これで、世界恐慌が波及し混乱していた日本経済をデフレから脱出させました。

政府公債や満州事変公債を発行し、これを日本銀行が買うかたちで、政府が日銀から現金を引き出し、軍備増強や公共事業に使うという手法です。

【田原】公債発行と公共事業。高橋是清がやったことは、いまとほとんど変わらないんだ。違いは、政府が出した国債を日銀が直接買うか、いったん民間金融機関に買わせてからすぐ日銀が買うか、だけ。

【藤井】「国債の市中消化の原則」といって、いまは財政法で日銀は直接引き受けができません。これを認めると通貨発行に歯止めがかからなくなり、悪性インフレを招くという人たちがいるので、彼らに従うかたちで各国の中央銀行が禁止している。

当時は直接引き受けで、政府には「財政赤字が問題なのに、さらに加速度的に赤字を増やす公債発行とは、大蔵大臣は頭がおかしいんじゃないか」という声があった。高橋は「違う。この状況では非常識をやらねばならぬのだ」と突っぱねた。

高橋是清の政策はケインズ政策の走りで、ルーズベルトが米大統領に就任する前、ケインズが1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を書いてケインズ政策が世界に知られるようになる、はるか前でした。

大蔵大臣・高橋是清の“非常識”が常識になった

【田原】なんで高橋是清は、日本の、いや、世界の常識を破ることができた?

【藤井】やっぱり金融の現場、つまりこのカネをめぐる「娑婆しゃば」の実態を、日銀での経験などを通じてよく知っている方だったからだと思います。

若いときアメリカに留学し季節奴隷として働いたり(本人はその契約とは知らなかった)、教師や官僚になったり、官僚を中断してペルーに渡って銀鉱事業を手がけてみたり、型破りな経験をしていますね。その後で日銀入りした。

【田原】ペルーで山師をやって大失敗、無一文になって帰ってきたとか。1936(昭和11)年二・二六事件で青年将校に殺された理由は、軍事予算を削ろうとしたから。でも、その軍事予算は高橋が公債を出して増強したもので、インフレ懸念が生じてきたから減らそうとした。将校たちは何もわかってなかったんだ。