政治的・道徳的「ただしさ」に耐えられなくなっている

「道路族」というワードのもとに連帯する人びと、あるいは「道路族マップ」を支持する人びとは、このワードに批判的な人が言うように「子どもという弱者に排他的な態度を示す強者・抑圧者」ではない。

すでに現代社会では圧倒的な「強者」となっている子どもに、文字どおり手も足も出なくなってしまった相対的な弱者たち――「子ども」の権力に怯えている人びとである。

彼・彼女たちは「道路族」となった子どもたちを自分の力ではどうすることもできないからこそ、せめて情報だけでも共有して難を逃れようと「道路族マップ」に集まっている。

もちろん、これを「不寛容」「差別主義」などと糾弾することは「子どもの権利」が尊重される現代社会の文脈において、政治的にも道徳的にもただしいだろう。だが、人びとはその「ただしさ」にもう耐えられない。自分の家の近所に暮らす「子ども」に対して、つねに緊張感を保ち「ただしく」あらねばならないことに、すっかり疲れ果てている。正論で殴りつけるのはたやすいが、殴りつけたらその相手が即座に「ただしく」なるわけではない。ますます「ただしさ」に怯えるようになる。

実の親でさえビンタすれば「暴行容疑者」になってしまいうる時代において、他人にとっての「子ども」は強者を通り越して無敵だ。そんな恐ろしい存在からは、できるだけ遠ざかりたいのである。

「他人の子ども」という無敵の強者が近くにいなければ、自分は「ただしさ」を押し付けられない。「ただしく」あらなくても構わない。

――それは現代社会の人びとにとって、あまりに魅力的に思える。

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