「他人の子どもを注意する」ことができない現代社会

「道路族」という概念に批判的な人びとは、「子ども」という社会的弱者とその親たちを、周囲の他人がさらに追い込む不寛容な社会の象徴であるとして「道路族」というワードを非難している。子どもたちは外で遊んで当然、うるさくて当然なのだから、周囲の人間は寛容性を持て――と。

だが、残念ながらその指摘は今日においてまったく的外れであると言わざるを得ない。

昨今のネットで「道路族」というワードが台頭し、またその被害に大きな共感が集まっているのは、「子ども」が嫌いな人が幅を利かせる不寛容社会が到来しているからではなく、「子ども」という存在が持つ権力に怯えている人が増えているからこそである。

道路にチョークで絵を描いている子供
写真=iStock.com/SerbBgd
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「道路族」被害を受けている人びとは、「道路族マップ」の開設者も含め、だれひとりとして自らが受けている被害を自力で解決できていなかったことは特筆に値する。これはけっして偶然ではない。彼・彼女らがそうすることができなかったのは、現代社会ではもはや「他人の子どもを注意する・叱る」という行為がしばしば、深刻な権利侵害になり、ことによれば「暴行」にすら該当してしまいかねないからである。

“権力者”となってしまった「子ども」

現代社会では、ご存じのとおり、子どもに近づいて声掛けをする人がいれば、すぐに自治体の不審者情報共有サイトに掲載される。公園のベンチに見慣れないサラリーマンがいれば、母親たちがすぐさま警察に通報する。たしかに、防犯意識の高まった、子どもが安心・安全に暮らせる社会である。実際のところ、統計的にも子どもが暴力の被害者となっている事件は年々減少している。それ自体は多くの人が歓迎していることだろう。

しかしながら、そのように「子ども」という存在がきわめて丁重かつ慎重に扱われる社会において、いったいだれが路地や公道で、近隣住民の生活も顧みずにやかましく遊んでいる子どもたちに接近して叱り飛ばせるだろうか。ましてや昔のように他人の《躾がなっていない》子どもに平手打ちやゲンコツをお見舞いするなど、想像するだに恐ろしい。普通に逮捕されてしまうだろう。

現代社会において「子ども」は、ともすればその辺の大人以上に人権的な重みづけを与えられている。たとえ路地や公道で騒音を立てても、地域社会のだれも手出しできない権力者となっている。子ども一人ひとりの尊厳が守られ、安心・安全が重視されればされるほど「子ども」は「道路族」と呼ばれるようになる。もし近所に騒がしい子どもがいたとして、ゲンコツ一発で黙らせることができるなら「道路族」などという禍々しいワードは生まれなかっただろう。

「子どもの人権」を高めていくことの重要性が喧伝され、そして実際に達成されてきた社会であること――つまり子どもを「権力を持つ弱者」としてみなすこと――と、インターネットでひそひそとその被害を共有しあう「道路族」被害者の増加は、コインの表裏の現象なのである。