コンプレックスとピカチュウのしっぽ

私は、左耳が二つに裂けている。

この左耳が本当にコンプレックスだった。左耳を隠して生きていた。左耳を人の目に曝け出すことに妙な罪悪感があった。

親友と温泉旅行に行ったときのことだ。自然に体を委ねながらぼーっと景色を眺めていると、突然親友が髪をかきあげ、左耳を触った。

「これどうしたん?」
「ピアスで切れちゃった」
「えらい綺麗に切れたなぁ。ピカチュウのしっぽみたいで可愛いな」

ピカチュウのしっぽみたいで可愛いな。ピカチュウのしっぽみたいで可愛いな。ピカチュウのしっぽみたいで可愛いな。ピカチュウのしっぽみたいで可愛いな。

私の頭の中で、何十回も、しんゆう の ことば が ひびいた!

コンプレックスたちは「外に出して!」と叫ぶのに、私たちは檻の中に閉じ込める。誰にも見られたくないものだから。誰にも知られたくないものだから。そうやって体の中が檻だらけになって、足取りは重くなり、その場から動けなくなっていく。檻の中のコンプレックスたちが外に飛び出さないかばかりが気になって、うつむいて、前も見られない。

必要なもの
YouTubeチャンネル「にゃんたこ」の『AM8:00の生ビールとさみしさ』より

だから私達は、檻の鍵を探しながら生きる。人生という長い長い旅路の中に、鍵はいくつも落ちている(はずだ)。たまたま出会う誰かが待っているかもしれないし、お金を払って手に入れられるかもしれない。本当はもう手のひらの中にあるのかもしれない。

私の檻は親友の鍵によって開かれ、私のコンプレックスはピカチュウのしっぽになったのだった。

豚の角煮は生活を救う

二十代の半ばごろに一年ほど、無職をしていた時期がある。収入なんてもちろんなくて、恥ずかしい話だが、わずかな貯金と、家にあるレコードや漫画やゲームソフトなどをリサイクルショップに売っては、そのお金でその日暮らしをしていた。

貧相なご飯を食べ続ける毎日に、その衝動は突然やってきた。

「どうしても、口の中でホロホロに溶けていく豚の角煮が食べたい」

私はスーパーに走った。そして精肉コーナーに置いてある豚バラブロックの値段に驚愕きょうがくした。千二百円。千二百円⁉ 千二百円あれば、二週間は満足いく食事ができる。

ベッドに寝転がり、豚の角煮を忘れるために天井の模様の数を無心に数え続けるが、天から降ってきた熱い衝動を振り払うすべを持たない私は、どんなにお金がなくても絶対に手放さなかった大好きな『ONE PIECE』の四十四巻から最新刊までを持って古本屋に向かった。人気の漫画は最新刊に近づけば近づくほど高く売れるのだ。迷いはなかった。

こうして手に入れた二千円で、私は豚バラブロックと青ネギ、缶ビールをひとつ買った。炊飯器で作れる豚の角煮レシピをクックパッドで検索した。水、醤油、しょうが、酒、みりん……レシピ通り、調味料を炊飯器に入れていく。フライパンで表面を焼いた豚バラブロックを入れ、青ネギを載せ、炊飯ボタンを押した。

三十分ほど経ったところで、炊飯器の頭から湯気が吹き出てきた。部屋を満たす醤油の甘いにおいと油のにおい。私はたまらずに缶ビールを開けた。忍法「味のついた空気は酒のつまみになるの術」発動の瞬間である。そうこうしているうちに豚の角煮は出来上がり、ダイソーで買った木製の赤い箸を使って皿に取り分けた。

豚の角煮
YouTubeチャンネル「にゃんたこ」の『新書を爆買いして豚の角煮を作る女』より

芸術的である。

ONE PIECEを犠牲に作り出した豚の角煮は、今まで食べてきたどんな食べ物より輝いて見えた。生きててよかったと、自分の生を実感するほどに食欲をそそる眼前のブツにワクワクは止まらず、さながら気分はグランドライン突入をひかえた麦わらの一味である。

少し大きめの角煮を選び、ていねいに口に運び、かじりついた。脂の旨みが舌を伝って、脳をびりびりと刺激する。自然と口からこぼれ出た言葉は「ありがとう」だった。

ONE PIECEを古本屋に売りに出さずとも、私の心が豚の角煮を食べたいと望んだときに、この豚の角煮を食べたい。この豚の角煮を食べられる自分でありたい。そう私は強く思い、無職を卒業することを心に決めたのである。

食べ物は時に、無気力な人間の背中を押してくれる。