ベトナム撤兵のための中国との和解

当時のアメリカは、ベトナム戦争に苦しんでいました。反共主義の南ベトナム政府を支援する米軍に対し、北ベトナムの支援を受ける共産ゲリラ(彼らに武器を提供していたのは中国でした)が抵抗を続けていました。民主党のジョンソン政権は、ベトナムに50万の米兵を送りますが、決定的勝利を得られぬまま戦争は泥沼化し、米国内ではベトナム反戦運動が高まりました。

「ベトナムからの名誉ある撤退」を掲げて当選した共和党のニクソン大統領は、中ソ対立を利用して中国と和解し、米中両国がベトナムから手を引くという戦略を立てました。1972年、ニクソン大統領が北京の毛沢東を訪問、米中関係は劇的に改善されます。この米中両国の蜜月は、トランプの「米中冷戦」発動まで約50年間続いたのです。

アメリカの中国への歩み寄りには、もう一つの狙いがありました。巨大な中国市場です。毛沢東により中国市場から排除されていたグローバリストたちが、「夢をもう一度」とばかりにニクソン訪中を促したのです。

このニクソン訪中を機に、アメリカはそれまで支援していた、台湾に逃亡した蒋介石を見捨て、北京政府に乗り換えました。

握手する毛沢東とリチャード・ニクソン
写真=AP/アフロ
1949年の共産党政権の成立以来国交がなかった中国を電撃訪問し、毛沢東党中央委員会主席(左)と会談したニクソン米大統領(右)=1972年2月21日

脱・計画経済と中国型グローバリズムの始まり

毛沢東の後を継いだのが、鄧小平です。

1978年、鄧小平はそれまでの共産主義による経済運営からの大転換を図ります。経済の自由化です。ソ連型計画経済の失敗を認め、米国型市場経済へとかじを切りました。これがいわゆる「改革開放」です。

強い国家主導で経済的平等を実現すれば、誰もが幸せになれる。これが、毛沢東の中国が目指す理想の社会だったはずです。しかし、そうはなりませんでした。考えてみればわかることですが、どんなに働いてももらえるお金が同じなら、労働者は働く意欲を失い、真面目に働かなくなります。それに、成果を皆で平等に分け合うだけでは、パイは縮む一方です。

スターリン同様、毛沢東も「反体制派の大量粛清」という恐怖と密告で人民を縛り上げ、働かせようとしましたが、人々は口では共産党を礼賛しつつ、面従腹背で働くふりをしていたのです。経済成長がなければ分配するものもなく、国も、人々の暮らしも豊かになっていきません。