毛沢東に裏切られた片思い
しかし、日本軍の撤退後、毛沢東率いる中国共産党が内戦に勝利して政権を握ると、社会主義計画経済を採用し、アメリカ資本は接収され、宣教師も追放されました。アメリカを牛耳るグローバリストの国際金融資本は、中国への「片思い」が裏切られたと知り、徹底的な封じ込めに転じました。
中国がアメリカと交戦したのはこの直後です。1950年、北朝鮮軍の韓国侵攻で始まった朝鮮戦争では、中国義勇軍が北朝鮮側について、韓国支援の米軍と戦いました。
朝鮮戦争が引き分けの形で終わったあと、アメリカは在韓米軍、在日米軍、沖縄の米軍で中国を包囲し、日本の再軍備(自衛隊の設置)を容認しました。
「中ソ対立」から始まった米中蜜月
建国当初、ソ連陣営についた毛沢東でしたが、長大な国境線で接するロシアと中国は、歴史的に領土問題という火種を抱えていました。軍港ウラジオストクがある沿海州は、19世紀半ばにロシア帝国に併合され、今もロシア領のままです。
また、「共産主義の本家」を自任するソ連共産党は、上から目線で毛沢東に命令していました。中国独自の革命を目指す毛沢東はこれに猛反発し、中ソ対立が表面化します。
アメリカとの核軍拡競争に後れをとったソ連では、スターリンの後継者フルシチョフが、核開発の時間稼ぎのためにアメリカに急接近し、「雪どけ」を演出していました。
面白いのは、毛沢東がソ連を「米国にこびへつらう右翼日和見主義者」、フルシチョフは中国を「核戦争をあおる冒険主義者」とお互いに罵倒しあっていることです。共産主義者の中で、「お前は右翼」「お前は左翼」と喧嘩していたのです。
東京オリンピック(1964)の開催期間中、毛沢東が最初の核実験に踏み切ったのは、ソ連からの軍事的圧力に対抗するためでした。1969年には中ソ国境で軍事衝突が起こっています(ダマンスキー島事件)。共産主義陣営の分裂は、アメリカにとっては絶好のチャンスでした。
ニクソン米大統領は、米中が国交を回復することで、ソ連を孤立させようと画策しました。米中和解の最大の狙いは、中国とソ連の間に楔を打ち込み、ソ連を牽制することにあったのです。