履歴書の「よく読む雑誌」に“週間文春”と書いて呆れられた

一九六四年九月一日群馬生まれの八王子育ち。早稲田大学政経学部卒。中学、高校では野球部、大学ではヨット部に所属していたからだろう、浅黒い肌と引きしまった身体は、書斎派の多い文春の中では異色だ。

入社は一九八九(平成元)年四月。百倍以上の倍率を見事に突破したが、履歴書の「よく読む雑誌」の欄に“週間文春”と書いて面接官から呆れられた。

最初に配属された『スポーツ・グラフィック ナンバー』編集部の冷蔵庫には大量のビールが入っていて、午後五時を過ぎれば飲みながら仕事をしても構わないという不文律があったから驚いた。

二年後に私が『ナンバー』に異動してきた頃、新谷はすでに編集部でやりたい放題だった。「四歳下の後輩に負けたら生きていけないからがんばろう」と思ったことを覚えている。

『週刊文春』に新谷が配属されたのは三〇歳と遅かったが、すぐに右トップ(その週でもっとも重要な記事)の書き手をまかされ、二年も経たないうちにエース記者となった。

会見に詰めかけるジャーナリスト
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中心メンバーとして創刊準備から関わったビジュアル雑誌『Title』ではわずか一年で異動を命じられるという挫折を経験したが、三六歳で復帰した『週刊文春』ではデスクとなり、凄腕の特派記者たちを率いて暴れ回った。

(中略)

「週刊誌受難の時代」に最前線で戦うということ

『週刊文春』が総合週刊誌の発行部数トップに立ったのはこの頃、二〇〇四年のことだ。

少し前から、報道される側の人権がより重く、報道の自由がより軽く扱われるようになり、メディアが敗訴した場合には、以前では考えられないほど高額の賠償金の支払いが命じられた。

(中略)

手間とヒマとカネをかけてようやく手に入れたスクープの代償が高額の賠償金では割に合わない。『週刊ポスト』と『週刊現代』は訴訟リスクを避け、スクープを狙う戦場から撤退していった。

一九九〇年代に一世を風靡したヘアヌードもすでに飽きられていたから、両誌の発行部数は急落した。読者は正直だ。

一方、女性読者に配慮してヘアヌードを掲載せず、訴訟を恐れずにスクープを狙い続けた『週刊文春』の部数は踏みとどまった。花田編集長時代のような七〇万部を超える部数ではすでになかったが、他誌の急落によってトップに立ったのだ。

新谷デスクは、週刊誌受難の時代に最前線で戦っていた。