「これ以上飲んだら、父ちゃん死んじゃうよ!」

文春社員が“本誌”と呼ぶ月刊『文藝春秋』に異動すると政治担当となり、安倍晋三からは、総理(第一次)になる直前、在職中、辞職直後と計三回も手記をとっている。

ずっと雑誌の世界で生きてきたから、単行本を作る出版部への異動を命じられた時にはショックを受けたが、売り上げや重版率がすぐに数字で出てくる個人プレーの面白さに気づいて俄然やる気を出し、一年に一六冊も本を作った。

出町譲『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(八万部)や白澤卓二『100歳までボケない101の方法』(三五万部)は大いに話題を呼び、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』を書いた鈴木智彦や『父・金正日と私 金正男独占告白』を書いた五味洋治は外国特派員協会に呼ばれ講演を行った。本は作るだけでは売れないと、新聞やテレビや雑誌の知人に頼み、著者と一緒にプロモーションに精を出した。担当した文春新書が合計一〇〇万部以上を売り上げたから、印刷する理想社が大いに喜んで祝宴を開いてくれた。

仕事も遊びも徹底的にやるから、酒の失敗は枚挙に遑がない。

酔っ払って階段から転がり落ちて頭蓋底骨折と髄液漏で死にかけたことも、転んで足を骨折して全治六カ月の診断を受け、一二本のボルトで骨を固定したこともある。

二〇〇九年夏、湘南の海で友人とバーベキューをして急性アルコール中毒になった時には、七歳の息子に「これ以上飲んだら、父ちゃん死んじゃうよ!」と泣かれて、以後酒はきっぱりと断った。

以前ならば当然完売したはずのスクープでも完売しない

仕事でも遊びでも嵐を呼ぶ男が『週刊文春』の編集長に就任したのは二〇一二年四月のこと。

休みは一日もない。校了と会議の合間を見つけては各分野のキーマンに会いに出かけ、編集長自ら情報収集に励む。

特集記事のタイトルには、編集部員六〇名弱、いや文藝春秋三五〇名の社員たちの生活がかかっているから、編集長は一日中、時には夜を徹して必死に考え続ける。週刊誌の編集長は命を削る仕事、とは経験者の言葉だ。

新谷が編集長に就任した直後の『週刊文春』は、〈小沢一郎 妻からの「離縁状」〉(二〇一二年六月二一日号)と〈巨人原監督が元暴力団員に一億円払っていた!〉(同年六月二八日号)の大スクープのお蔭で二号続けて完売(実売八〇%超)を記録した。

だがその頃、スマートフォンの普及と紙媒体の衰退は急速に進んでいた。通勤電車で新聞や雑誌を広げる乗客は激減し、中学生までもがスマホの画面をフリックしてLINEの返信に精を出していた。

大きな話題を呼び、以前ならば当然完売したであろうASKA(チャゲ&飛鳥)の覚醒剤疑惑独占告白(二〇一三年一〇月一七日号)も、〈全聾ぜんろうの作曲家 佐村河内守さむらごうちまもるはペテン師だった!〉(二〇一四年二月一三日号)も、清原和博の薬物疑惑報道(二〇一四年三月一三日号)も完売には至らなかった。

(中略)