「休業協力金」申請書類の記入も手伝った

少し分かってきた。

このコロナ禍騒動でどの店も開けられなくなったときには、休業協力金申請のための複雑怪奇な申請書類記入をママたち全員分手伝い、横丁救済のためクラウドファンディングを立ち上げ見事目標額を集めたり、渋谷が本拠のIT企業とWEB上で「バーチャルのんべい横丁」を立ち上げる試みをしながら、ママの家の電球交換や振り込み代行もやる。そしてママたちを「見る」。「面倒なことが安心」、の指す意味もなんとなく分かってきた。

このあたりでうすうす気付く。現役の高齢ママたちが昭和時代の苦労を言わず、口々に「楽しかった」と回想したこと、前回五輪以来のんべい横丁に通う老紳士の評「大人の街だった」の一言、御厨さんの「見る」、も、「安心」、もすべて通底したものがあることに。

結局、明るく、上品で、ケンカもしない人々による万々歳の愉快で安全な横丁なんぞ、カッチリと据え付けられたように元からそこに存在するわけはなかった。ともすれば一瞬で消える楽しい横丁の光景を、努めて客と店主が維持し続けているのだ。

勇気が湧いて、安心できる「距離と関係」

生きていれば誰にもある憂いや怒りのエネルギーは、ノレンを潜る瞬間にはパッと笑っておしゃべりを楽しむ快闊な力に変換できる「大人」の客。狭い店内で向かい合うママの人柄がそうさせているのだが、本人は快闊さにあてられ「楽しかった」と笑うのみ。人の世の歪みを嘆く酒にも簡単にできるところ、人の世を楽しむ酒にし続ける人々。彼・彼女らの強さを「見る」とき、安心が生まれる。

ママたちも、時々は、強くいられない。どうしても自分を支えられないときだけ、少し手助けしてもらう。

そういう距離の取り方、関係の結び方があること、その喜びを両者は横丁内でビールをさしつさされつし、馬鹿話で笑い合う姿で図らずも日々表現し続けてきたのだ。時々飛び込んでくる若い客は両者の“表現”に触れ、教えられ、自分もそこに列したくなってくる。若き日の御厨さんもその一人だったろう。

勇気も湧き、「安心」もできる。距離と関係をそのまま数十年、果ては死ぬまで保持して生きられるということを、ベテランのママは象徴的に示し続けるから。御厨さんはママの手伝いもするが同時にもらっているものがあったのだ。ちゃんとギブアンドテイクの関係になっている。

御厨さんは50代半ばだが、飲んで話してみて、失礼ながら少しも老け込みを感じないし、相手に年齢の上下を意識させるような傾斜をつけた話し方もしない。

ただ、私がいまだ見つけられないできた「現代人にとって横丁とはなにか」の解を教えてくれた。簡潔に表現するとごく当たり前のこと、「他者との距離の取り方、つながり方、楽しみ方を教えるのが横丁」ということを。そのあたりを言語化し、行動によって証明もしている先達がいたことを私に意識させてもくれた。これは嬉しい体験だった。私もまた時々飛び込んでいく若造の一人だから。

平屋に挟まれた通りに二人の男性が立つモノクロ写真
出所=『横丁の戦後史』
昭和25~27年に撮られたのんべい横丁と思われる1枚。現在は2階建てだが、この頃は平屋。流しの姿もある。(※注)

(※注)のんべい横丁と思われるモノクロ写真。東京都が露店業者たちの集団移転後の様子を撮影してまとめた冊子『露店』(東京都臨時露店対策部編・昭和27年発行)より引用。立ち退き事業を推進した側である行政の制作したものながら、露店商たちへの同情的な視点と、新装成った移転先店舗群の大写しの写真に、事業への自信も垣間見える。